モロッコ旅行記・第2日

  • 2010年7月22日(木)

「首都ラバトから古都マラケシュへ」

ロッコは、1956年までフランスの保護領であったため、フランスの影響が色濃い(保護領とは、要するに「植民地」であるが、東アジアのどこかの国のように、フランスがモロッコに謝罪したとかいう話は、寡聞にして聞いたことがない)。ラバトのホテルの朝食も、フランス式で、パンとコーヒーだけのコンチネンタルである。

今日は、列車で、内陸の古都・マラケシュへ向かうことにしている。列車に乗るには、駅へ行かねばならないが、私が持っているモロッコのガイドブックには、ラバトの地図が載っておらず、ホテルがどこで、駅がどこやら、さっぱり分からない。

そこで、ホテルのフロントで、タクシーを呼んでもらおうとすると、「どこへ行くのか」と尋ねられる。日本で、タクシーを呼んでもらう時に、行き先を尋ねられることはまずないが、外国では、決まって尋ねられる。

「駅まで」と、フランス語で答える。すると、フロント係は、外を指差して、フランス語で何やら言う。私のフランス語能力は、1歳児以下だから、全く分からない。英語で言ってもらう。

タクシーを呼ぶまでもなく、ホテルの前の道を渡ったところが、めざすべきラバト・ヴィル駅なのだった。

白亜の建物に、"GARE RABAT VILLE"と書いてある。フランス語で、鉄道の駅は"la gare"(ラ・ガール)という。阪急電鉄の「ラガールカード」といい、JR大阪駅の「ギャレ大阪」といい、関西出身者にとっては、なじみ深い単語である。

駅舎に入り、まず、張り出してある時刻表を確認する。一応、日本を旅立つ前に、モロッコ国鉄のホームページを見て、フランス語で苦戦しながらも、時刻表らしきものを発見し、列車の見当は付けておいたが、鉄道を利用するに当たって、時刻表がなければ始まらない。時刻表なしで鉄道に乗るなど、竹刀なしで剣道の試合に出るようなものだ。

9時45分発のマラケシュゆき急行列車があるのを確かめ、窓口で、きっぷを買う。モロッコの列車は、1等車と2等車を連結していて、1等車は指定席、2等車は自由席である。外国でケチケチしても面白くないので、1等の乗車券を買う。マラケシュまでは4時間かかるが、185DH(約1850円)と、日本人にとっては安い。

駅の窓口では現金しか使えず、昨夜、空港のATMで下ろした200DHをほぼ使い切ってしまった。ちょうど、駅舎内に銀行が入っているので、両替しておくことにする。100ユーロ差し出すと、1086.55DHになって返ってきた。私の経験では、米ドル・ユーロ・英国ポンドは、日本で両替しておくほうがレートがよく、その他の通貨への両替は現地で、というのが鉄則である。

ラバト・ヴィル駅のホームは、半地下構造になっている。規模は違うが、スコットランドエディンバラ・ウェーバリー駅を思い出す。

ロッコ国鉄は、ホームの手前で、駅員による改札がある。これは、ヨーロッパ式ではなく、日本式である。

ホームに下りると、なかなか新しい2階建ての近郊電車が停まっている。カサブランカゆきの普通列車で、少し遅れているようだ。カメラを取り出していると、駅員が目ざとく気付いて、「撮ってはいかん」というジェスチャーをする。鉄道の写真を撮って怒られるなど、日本では考えられないが、途上国に行くと、鉄道は、軍事施設に準じる扱いで、撮影禁止というところが多い。これまで、ミャンマージンバブエがそうであった。ロシアや中国も、地下鉄以外は撮影可のはずだが、一眼レフなど向けていると、注意されることが多い。北朝鮮など、射殺されても文句は言えないのだろう。

まったく、鉄道ファンたる者、日本に生まれてよかったとつくづく思うのであるが、私は、その場では駅員の注意に従う素振りを見せておいて、ちゃっかり、その駅員が緑色の長方形のプレートを挙げて「出発指示合図」をしているところまで撮影した。言葉が分からなくても、鉄道屋の一挙手一投足は、見ただけで分かる。

ホーム上には、線路際に、「4V」とか「8V」とかいう看板が建っている。最初は、何のことか分からなかったが、日本では、列車の運転士向けの「停止位置目標」がある辺りだな、と考えて、ひらめいた。フランス語で、「車両」は"voiture"(ヴォワチュール)という。「4V」は、「4両編成停止位置」という意味に違いない。もとより、そんなこと分からなくても、何ら支障はないのであるが。

私が乗る9時45分発の列車は、20分ほど遅れて入線してきた。フランス製の電気機関車を先頭に、前から、1等車2両・2等車7両という編成だ。ホームの真ん中辺りで待っていた私は、1等車に向かってホームを走ることになった。号車別の乗車位置まで案内してくれるJRの親切さは、外国では、当たり前ではないのだ。

1等車の客車は、ヨーロッパ標準タイプの25メートル級客車である。といっても、ヨーロッパの鉄道すら知らない人には全く分からない説明だろうが、日本の在来線の車両より一回り大きく、新幹線相当だと思ってもらえばよい。

客車の外側には、クリーム色にオレンジ色の字で"ONCF"と書いてある。フランス語で、「モロッコ国鉄」の意である。そして、ONCFの文字の下に、ごく小さくアラビア語も併記されている。モロッコ人にとっての母国語はアラビア語で、フランス語は「第一外国語」だが、鉄道では、技術指導に当たったフランス国鉄の影響が強いのか、フランス語が優勢だ。

1等客車内は、1室6人ずつのコンパートメントになっている。最近は、コンパートメント方式の本家・ヨーロッパの鉄道でも、日本のようなオープンサロン方式の車両が増えてきた。懐かしい造りだな、とコンパートメント内を見回していると、室内の鏡に、"SNCF"というフランス国鉄ロゴマークが入っている。現行のSNCFロゴの一世代前の旧ロゴである。鏡だけがフランスのお古というわけではあるまいし、この客車は、フランス国鉄から譲渡されたものなのだろう。

列車は、目測時速120キロ程度で、大西洋に沿った線路を走る。複線電化で、まくらぎはPC(コンクリート)まくらぎ、保線状態はJRの幹線並みに良く、車輪がレールの継ぎ目を拾う音が聞こえないことからすると、ロングレールのようだ。

ラバトから50分ほどで、モロッコ最大の都市・カサブランカのカサ・ヴォヤジール駅に停まる。私一人だったコンパートメントも、定員ちょうどの6人になる。

すると、そこへ、中年の御婦人がきっぷを手に、コンパートメントに入ってきた。しかし、もう席はない。御婦人が何やら言うと、私の向かいの席に座った若者が、きっぷを見直して、「あっ」という顔で席を立った。若者が席を間違えていたようで、一件落着である。

私が、こんな些事をわざわざ書いたのには、訳がある。それは、外国を旅していると、鉄道でも飛行機でもそうなのだが、この種の出来事が実に多いのである。もちろん、日本でも、席を間違って座る人などいくらでもいるが、その発生率には、有意な差があるように思われてならない。

列車は、カサブランカを出ると、大西洋を離れ、東へと走る。内陸に向かうにつれ、車窓がどんどん乾いてゆく。こういう国を旅していると、日本の緑の豊かさが奇跡にも思えてくる。

砂漠地帯の中を、複線電化の立派な線路は、時折カーブしながら続いている。日本のように、地形が険しい国では、線路敷設に当たって自ずと制約があるのも分かるが、びょうびょうと砂漠が広がる中では、このカーブは何のためにあるのかと首を傾げたくもなる。

途中のSettat(セタ)駅から、線路は単線になる。駅のポイント(分岐器)は、JRではあまり見かけなくなった、てこによる手動転換式で、線路際をワイヤーケーブルが這っている。列車行き違いのできる駅では、当務駅長(モロッコ国鉄でもこのような概念があるのかは知らぬが)がホームに出て、列車の通過を看視している。ただ、ぼうっと見送っているだけのようにも見える。

午後2時前、列車は、マラケシュ駅の頭端式ホームに到着した。マラケシュは、この列車の終着駅というだけでなく、アトラス山脈の手前に位置し、モロッコ国鉄線の終点でもある。

冷房の効いた車内からホームに降りると、暑い。が、日本のような蒸し暑さではなく、オーブンのような砂漠の暑さだ。

マラケシュ駅のきっぷうりばで、帰りの列車のきっぷを買っておく。「明後日、カサブランカまで、1等車、13時発、大人1枚」と、フランス語の単語を並べる。通じたようで、若いモロッコ女性の係員は、コンピュータを叩き始めた。私は、あっと思い、一つ付け加えた。「プラース・ドゥ・フネートル・スィル・ヴ・プレ!」(窓側で!)

マラケシュ駅のきっぷうりばには、「VISA」のシールが貼ってあり、クレジットカードが使えるのかと思ったが、駅員は首を横に振る。理由を尋ねたかったが、そんな高等なフランス語は分からない。

駅前には、軽自動車のタクシーが何台か客待ちをしている。その1台に乗り込み、開け放った窓から熱風を浴びながら、ホテルに向かう。京都の四条大橋にあるようなデジタル温度計があり、「40℃」を指している。

ロッコには、市内限定の「プチ・タクシー」と、長距離の「グラン・タクシー」とがあり、プチ・タクシーは、プジョールノーの軽自動車、グラン・タクシーは、ベンツが使われている。どちらも、日本ではとっくにスクラップにされているようなポンコツで、シートベルトも壊れ、エアコンなどないものがほとんど、というより、全てである。

マラケシュは、モロッコの古都で、イスラム時代からの旧市街(メディナ)も、フランス保護領時代に建設された新市街も、全ての建物が、サーモンピンクのような赤色に統一されている。マラケシュ駅の駅舎も、メディナに入る門の近くにあるホテルも、赤い。

あまりに暑いので、町歩きは涼しくなってからにし、ホテルの冷房の効いた部屋のベッドに横になる。

夕方4時ころ、ホテルを出て、メディナに散策に出かける。車など通れない、曲がりくねった狭い路地の両側に、果物屋や肉屋、バブーシュ(モロッコのサンダル)屋、ミントティー屋(所在なげな地元民が集まり、ミントティーを飲みながら雑談している)などが雑然と並んでいる。惣菜のようなものを売っている店もあるが、おびただしい数のハエがたかり、ほとんど真っ黒である。路地には、荷物を運ぶロバのフンが転がっている。

そういう状況であるから、臭い。暑さもあって、顔をしかめずにはいられないが、この雰囲気、嫌いではない。

ケースの中に、生きたウサギを陳列した店がある。ウサギも暑さにぐったりしている。ここは肉屋で、客が注文すれば、その場で絞めてくれるらしい。私は、しばらく立ち止まって、誰かウサギ肉を買いに来やしないかと待っていたが、客は現れず、ウサギの寿命が少しばかり延びた。

メディナの中は、このような路地が入り組んでいるので、めくらめっぽうに歩き回っていると、たちまち道に迷うが、それもまた楽しい。

メディナの中心には、ジャマ・エル・フナ広場が広がる。コブラ使いや、似顔絵描き、怪しげな物を売りつける者などがたむろし、それらをひやかす観光客が集まっている。観光客は、白人がほとんどで、日本人はいない。が、広場周辺に店を構える土産物屋は、私の姿を認めるや、日本語の単語を投げかけてくる。

「見るだけ」「ビンボープライス」などはまだ分かるが、中には、「ヤクザ」とか「バカ」とか言ってくる者もいて、思わず振り返ってしまう。誰が教えたのかと思うが、どうせなら、日本の電波には乗せられないような単語を叫んだ方が、集客効果は高いように思われる。

そのようにして店をひやかしていると、1軒のTシャツ屋の若い男が、何やら言いながら、私の前に立ち塞がって、腕をつかんできた。私が睨みつけて、「お前、しばくぞ」と日本語で警告しても、腕を放さないので、私は、やむなく、その男を突き飛ばした。当然、正当防衛である。

この日の夕食は、日が暮れた後、ジャマ・エル・フナ広場の屋台で、モロッコタジン鍋を使った、煮込み料理を食べた。ホブスというモロッコ風のパンは、フランスパンのようで、なかなかうまい。


ホテルへの帰り、歩くのも疲れるので、タクシーに乗り込むと、年齢不詳のモロッコ人女性と乗り合いになった。モロッコでは、タクシーで乗り合いになることがしばしばある。途中から乗る客は、方向が合えば乗り込み、運転手が言う相応の運賃を払って降りていくという仕組みだ。

その女が、私に「ホテルのバーで飲まないか」と英語で言う。「その後」を期待したい相手なら、誘いに応じたところだが、そのような魅力も感じられぬので、私は、「ノン」と断った。女は、私とは別のホテルの前で、タクシーを降りた。

タクシーの運転手は、車をスタートさせてから、言った。

ムッシュー、あなたは賢明だ」

モロッコ旅行記・第1日

  • 7月21日(水)

福岡→成田→パリ→ラバト(モロッコ

JAL405便は、沈まぬ太陽とともに、シベリア上空を、西へ、西へと飛び、パリ・シャルル・ド・ゴール国際空港に着いた。
すぐに、エールフランス便に乗り継ぐ。搭乗待合室には、いる、いる。頭にスカーフを巻いた女性たち。イスラムの国に行くのだと実感する。ラバトゆきAF1358便は、管制官ストライキにより、出発が2時間遅れ、ラバト空港に着いたのは、夜11時。
空港の両替所は、既に閉まっている。モロッコでは、どれくらいクレジットカードが通用するのか分からない。私は、ATMで、とりあえず200DH(DH=ディルハム。1DHは約10円なので、200DHは約2000円)引き出した。ラバト市内まで、タクシーに乗らねばならず、現金が必要である。

ラバト空港のターミナルビルは、薄暗く、小さい。日本の地方空港並みである。とても、モロッコの首都の空港とは思えないが、一歩外に出ると、ますますその感が強くなる。タクシー乗り場すら、見当たらない。日本のローカル線の駅前の風情である。

近くにいた警察官に、「タクシーは?」と尋ねると、少し離れたところを指差す。目を凝らすと、闇の中に、車が何台か止まっていて、人が手を挙げている。空港に着いて、このようなシチュエーションは、ジンバブエのハラレ以来だ。
私は、そこに向かった。

果たして、私より年上と思われるオンボロベンツが止まっていて、「TAXI」の表示がある。私は、フランス語で、「ラバト市内まで、いくら?」と尋ねた。

"Vingt Euro."

フランス語をかじって3日程度の私でも、それが「20ユーロ」(約2300円)だと理解するのに時間はかからなかった。

思わず、私は、「高い」と、日本語と英語で言った。

ところが、運転手は、私がフランス語を聞き取れなかったと思ったのか、下手くそな英語で、「20ユーロ」と、もう一度言った。

私も、もう一度、「高い」と答えた。

既に、私の周りには、ほかのタクシーの運転手も何人か集まってきていたが、その運転手たちが、口々に、フランス語で「20ユーロ」と言う。言う、というより、叫んでいる、に近い。中には、"Two hundred!"などと、めちゃくちゃ言うものも、いる。あとあと考えて、「20ユーロまたは200DH」ということだったのかもしれない。

いずれにせよ、交渉の余地は、ないようであった。

私は、頷いて、オンボロベンツに乗り込んだ。日本の感覚では、尻込みしてしまう状況だが、世界中でこういう連中と付き合ってきた結果、彼らは、多少ぼったくっても、生命・身体に危害を加えてくることはない。

オンボロベンツは、片側2車線の道路を飛ばし、20分くらいで、ラバト市内のホテルに着いた。

時刻は、モロッコ時間(イギリス時間と同じで、夏期、日本との時差は8時間)で、夜12時。日本を出て、まる1日経っている。

私は、シャワーを浴びると、ベッドに倒れ込んだ。

モロッコへの道

今年も、夏休みを2週間取れることになった。

上司が、夏休み時期を相互に調整するペアを指定してくれ、「夏休みは連続2週間、必ず取ること」と厳命してくれるのだから、これほどありがたい話はない。普段は、上司の命に背くこともある私だが、この言い付けには、全面的に従った。

さて、どこへ行くか。

JALのマイルが10万マイル以上貯まっているので、エコノミークラスなら、世界中どこでも行ける。8万マイル使って、ブラジルのサンパウロへ飛び、そこを拠点に南米を周遊してこようかと思ったが、今年9月限りでの運休・地点撤退が決まっているサンパウロ線は、もはや空席がなかった。

普通のエコノミークラスでの欧米往復は、しんどい。そこで、プレミアムエコノミークラスの空席を検索すると、7月末のパリ線に空きがあることが分かり、とりあえず予約を入れた。

フランスへは、3年前の11月にも訪れ、パリ→ボルドーマルセイユ→リヨン→ジュネーブ(スイス)→パリと鉄道で一周したし、パリ市内の主な美術館や教会も、だいたい見て回った。

どこへ足を延ばそうかと考えるうち、モロッコが頭をよぎった。

ロッコに何があるのか、私は、知らなかった。

たまたま、そのころ、ある被疑者との雑談で、映画「カサブランカ」の話になったことと、また、私の好きな映画「あの頃、ペニー・レインと」のラストシーンで、ヒロインがモロッコ行きの飛行機に乗り込むシーンがあったことから、モロッコに行ってみようと思ったのである。

ロッコは、戦前、フランスの保護領だった関係で、エールフランスの便が豊富にある。このくらいは、前提知識として知っている。

私は、エールフランスのホームページで、パリからモロッコ往復(往路ラバト着、復路カサブランカ発)の航空券を予約した。ヨーロッパ周辺域内は、いわゆるローコストキャリア(格安航空会社)が発達しており、エールフランスも往復で約3万円という格安運賃を設定して対抗している。航空会社は消耗戦で大変だろうが、旅行者にとっては、ありがたい話である。

さて、モロッコに行くのは決まったが、モロッコは、2週間丸々いるようなところではないらしい。もっとも、私の旅の主眼は、その国の鉄道に乗ることだから、そういうことになるのであって、モロッコ自体の観光資源が少ないということではないのだが、とにかく、1週間もあれば十分なようである。

ロッコから船でジブラルタル海峡を渡り、1週間かけて、陸路(と、海路)でのんびりパリに戻ることも考えた。そのほうが、映画「カサブランカ」のようでもあり、雰囲気が高まる(気がする)。

ところが、その場合、パリからモロッコへの航空券を片道で買うことになり、5万円以上かかる。片道だと、割引がないからである。往復で買っておいて、復路券片を捨ててしまうという手もないではないが、鉄道でも航空でも、捨てることを前提にチケットを買い、座席まで予約するのは、違法ではないにしても、フェアな買い方ではないと思っている。

そこで、飛行機でさっさとパリに帰ってきて、残り1週間は、去年に続いて、ヨーロッパの鉄道に乗ることにした。

パリから、どこへ行くかと考えて、パリ→ブリュッセルアムステルダム→フランクフルト→ストラスブール→パリと、時計回りに回ってくることにした。

ベルギーにはまだ行ったことがないし、せっかくヨーロッパにいるのだから、大好きなドイツ語を、たっぷり見て、聞いて、話したい。

ぼんやりそう考えていると、自然と周遊ルートができ上がった。「ユーレイルパス」が1枚と、「トーマスクック時刻表」が1冊あれば、ヨーロッパは、鉄道でどこへでも行ける。

というわけで、7月21日から8月3日まで、フランス・モロッコ・ベルギー・ルクセンブルク・オランダ・ドイツ・スイスを歴訪することにした。

言葉が分かると、旅の楽しさは格段に上がる。私は、フランス語のテキストを買い込んできた。

小呂島オフレール紀行

先週土曜日、休みが取れたので、どこかへ行こうと思った。

休みの日に、私が鉄道に乗りに出かけるのは珍しくもないが、今回は、一風変わったところへ出かけてきた。

その目的地とは、玄界灘に浮かぶ「小呂島」(おろのしま)である。

この島の名前を聞いて、どこかすぐに分かるのは、よほどの離島マニアだろう。

小呂島は、行政区画としては福岡市西区に属しているが、九州の本土はもとより、玄海島能古島など、福岡のほかの島とも遠く離れた、絶海の孤島である。

私が小呂島の存在を知ったのは、「JR時刻表」の索引地図の九州のページを見ている時だった。偶然、小呂島なる島に、航路を示す赤い線が延びていることに気付き、気になって、運航時刻も調べてみると、小呂島には、福岡市営の渡船が、1日1往復ないし2往復していることが分かった。

福岡市営渡船の案内)
http://www.port-of-hakata.or.jp/guide/ferry_city/kohro_5.html

さて、航路が「1日1往復ないし2往復」と書いたが、これが曲者で、上記サイトの時刻表を見ていただくと分かるとおり、小呂島ベースのスケジュールとなっている。毎週月・水・金・日曜日は、小呂島を朝に出て、夕方に小呂島へ戻る1往復しかなく、本土から日帰りで小呂島を訪れることは不可能である。ちなみに、小呂島には、宿泊施設や食堂の類は、一切ない。

そうすると、本土のよそ者が小呂島を訪れるのは、2往復運航日の火・木・土曜日に限られることになる。

私は、4月の初めには、小呂島に行こうと決めていたのだが、このような事情に加え、仕事と鉄道趣味と天気の兼ね合いで、なかなか機会がなかった。島をぶらぶら歩くつもりだから、雨ではおもしろくないし、玄界灘を横切るので、波の穏やかな日が良い。スケジュール帳と天気予報をにらんで、昨日、いよいよ小呂島へ行くことにした。

6月5日午前8時50分。私は、地下鉄空港線姪浜(めいのはま)駅からタクシーで、小呂島ゆきの船が出る能古渡船場へ向かった。ここからは、主に能古島ゆきのフェリーが出るので、福岡市民は、「能古渡船場」と通称しているが、正しくは「姪浜旅客待合所」というらしい。

能古渡船場、正しくは姪浜旅客待合所の待合室は、行楽地である能古島に向かうらしい女子大生などでごった返していた。その片隅に、作業服を着たおっさんなどがいる。小呂島に戻る人だろうか。

能古島ゆきの乗船券は券売機でも買えるが、小呂島ゆきは、窓口での発売である。窓口には、「小呂島へ行楽で行かれる方へ」という注意書きが貼ってあり、「小呂島には、宿泊施設はありません。帰りの船の欠航に備えて、テント、非常食を用意してください」などと書いてある。そのどちらも、私は用意していない。

小呂島までの乗船券は、片道1710円。高速船で1時間余りかかる距離とはいえ、日常の足としては高額である。JRなら、100キロ超の区間の運賃に相当する。

窓口で、往復乗船券を買う。珍しがられるかな、と思ったが、窓口のおばさんは、「小呂ですね」と言って、事務的に発券した。往復運賃は、片道運賃の2倍の3420円で、割引はない。往復乗船券は、4日間有効らしいが、「途中下船前途無効」とある。直航便だから、もとより途中下船できる港があるわけでもなく、玄界灘に身を投げれば、人生の前途も無効にすることになる。

私の後ろに並んでいた若い女性も、小呂島往復の乗船券を買っている。手荷物は小さいが、「ミスタードーナツ」の袋を提げている。島の実家にでも帰るのだろうか。

ほどなくして、小呂島ゆきの改札が始まる。「パタパタ式」(反転フラップ式)の案内装置や、「小呂島行」と書かれた改札案内が、どことなく鉄道を思わせる。

シップは、「ニューおろしま」である。小呂島の読みは、正しくは「おろのしま」なのだが、どうも「おろしま」と通称するようだ。最近の船は、港の形状に合わせて、右舷(スターボードサイド)を接岸するという邪道なことを平気でするようになったが、左舷(ポートサイド)接岸を守っているのは好ましい。

船室は、前方が20席くらいの座席、後方が桝席になっている。高速船は、重心が船尾に片寄っており、後ろのほうが揺れが少ないが、一人で桝席に座っていても落ち着かないので、座席に座る。

ニューおろしまは、私と、先ほどの女性のほか、観光客らしい40歳くらいのおっさん、作業服を着たおっさん数人を乗せて、9時ちょうど、定刻に出航した。

玄界灘の外海に出ても波はほとんどなく、凪いだ海を滑るように渡り、定刻の10時05分、小呂島に接岸した。岸壁には、ナンバープレートのない軽トラが停まっていて、若い男たちが、船から降ろした荷物を積み込んでいる。先ほどの「ミスタードーナツ」の袋を持った女性は、迎えに来ていた若い男性に荷物を持たせ、並んで歩いていった。

私は、そういった光景をしばらく眺めてから、小呂島の集落に向かった。向かったといっても、港のある島の南西側が唯一の集落で、港から一歩入れば、民家の軒先をかすめる路地である。とても、自動車が通れる道ではなく、先ほどの軽トラは、港の岸壁に沿って走っていった。

小呂島は、山が海岸線の近くまで迫っている。集落を迷路のように抜ける路地は、急な上りになり、神戸や長崎を思わせる。

路地は途中から階段になり、集落を一望する高みまで登ると、車が通れるコンクリートの道路に出る。と、先ほど船に乗っていた、観光客らしきおっさんと出会う。おっさんは、一瞬、私を島の人だと思ったようで、「こんにちは」と挨拶してきた。私も「こんにちは」と返事したが、間もなく、船に乗っていた客どうしと分かったようで、ばつの悪そうな顔になる。

おっさんを無視して、だらだらと上り勾配の続くその道路を、さらに登ってゆく。山側には段々畑が広がる。島に川はなく、用水路もないので、水は貴重なようだ。畑には、使い古しの風呂桶などが置かれ、雨水が貯まっている。

遮るもののない道に、陽射しが降り注ぐ。太陽との位置関係からして、道は北方向に延びているようだ。

まもなく、畑は尽き、一面の山林が広がる。「福岡市水道局」と書かれた浄水設備がある。島の上水道は、地下水と、海水の淡水化でまかなわれている。

道端に、「潮風農園」と、ドラマの「トリック」に出てきそうな字体で書かれた畑がある。耕された形跡はなさそうだが、はて。

一本道をひたすら歩いてゆくと、集落から1キロほどで、小呂島の小中学校に着く。何も、集落から離れた山の中に学校を作らなくても、と思うが、港周辺に土地はなく、グラウンドなどとても作れないだろう。それにしても、福岡市立の学校だから、先生は福岡市から派遣されてくるのだろうが、本土育ちの先生にとって、島での生活はいかばかりか。

道は、学校で行き止まりである。仕方なく引き返していると、先ほどのおっさんとすれ違う。ここが、普通の町なら、「行き止まりですよ」と声をかけるところだが、小呂島では、行き止まりの道を往復するくらいしか、することがない。お互い、会釈して行き違う。

途中、山に分け入る砂利道に気づく。せっかくなら、と足を踏み入れかけると、足元にヘビが! と、ギョッとしたが、ヘビは既に死んでいた。が、線路の赤茶けたバラストに似た色からして、マムシのようで、注意しなければならない。

急な上りの砂利道を、時折、クモの巣に突入しながら登ってゆく。モンシロチョウの模様の白い部分を青くしたような蝶が飛んでいる。たまに、草むらの中で、カサカサと何かが動く。マムシだろうか。

はっきり言って、気味の悪い道である。別に、登山しているわけでもなく、引き返してもよいのだが、人が通った形跡があるので、この先に何かがあるはず、と言い聞かせて登ってゆく。

砂利道に分け入って5分ばかり。汗だくになりながら登りきって、納得した。小呂島の通信を支える、NTTドコモ基地局が建っていた。ちなみに、小呂島では、ソフトバンクは「圏外」である。

再び、道路に引き返して、集落に戻る。畑の中に、東方向の山に分け入る路地がある。急な上りのその路地を進んでいくと、「嶽宮神社」と書かれた鳥居と、崩れかけた石段が現れた。旅先で見つけた神社にお参りするのは、私の趣味でもある。石段を登っていくと、この日3度目のおっさんが、上から石段を下ってきた。私が、ドコモの基地局に寄り道している間に、追い抜かれていたのだろう。

私が、タオルで汗を拭いていると、すれ違い際に、おっさんが「やれ、暑いですな」と言う。「ですね」と返事して、さらに登る。

登りきったところにある小さな社殿で、拍手を打って、来た道を引き返す。

コンクリート道路に戻って、集落内に戻ったあたりで、足元を黒いものが横切った。

えっ、と思って、とっさに後ずさりすると、小さなマムシが、頭をもたげて、道路を這っている。もう少しで、まともに踏み付けるところで、危ないところだった。マムシは、向こうから人間を襲ってくることはないが、こちらが攻撃をしかけると、反撃するという習性がある。

集落に戻って、コンクリート道路を南方向に進むと、公民館のような建物があり、中では、白衣を着た人たちが働いている。診療所かな、と思うと、掲示板に、「済生会福岡病院出張診療日程」と書かれていて、それによると、6月3日から6月5日まで、各科目の医師・看護師が島に滞在し、無料で診療を行っているらしい。

南方向の海を望む。澄み切ったきれいな水だ。遥か沖合を、「HYUNDAI」と書いたタンカーが航行している。

しばらく海を眺めてから、集落の路地を歩いてみる。どの家も、玄関扉は開けっ放しで、網戸だけだ。家々から、ばあさんが出てきて、文字どおり、井戸端談義に花を咲かせている。開け放しの台所では、昼ごはんの準備をしている家もある。平和な光景である。

そして、路地のあちこちで、猫が昼寝している。ふつうの町なら、野良猫が多いな、で片づけるところだが、この猫の多さは、何か理由がありそうだ。沖縄の離島で、明治時代、ハブ退治のためにイタチを放したところ、今度はイタチが増えすぎて困っている、という話を聞いたことがあるが、同じ臭いを感じる。

漁協が運営している購買部があり、島で唯一の「商店」でもあるが、土日は全面休業。自動販売機で売っている飲み物の値段は、「本土並み」で、意外である。郵便ポストがあり、取集担当支店(郵便局)を調べようとしたが、取集時刻を書いた紙は貼られていなかった。

港まで戻ると、島に来た時は気づかなかったが、モーター音を発している小屋があり、「九州電力小呂島発電所」とある。日本最小クラスの発電所だろう。

島をたっぷり歩いたが、時刻は11時40分。帰りの船は、13時20分。まだ、1時間以上ある。

港に係留された漁船を見ながらぶらぶらしていると、杖を突いたじいさんが現れ、「どうも」と声をかけてきた。「こんにちは」と返事すると、じいさんは、「暑いけん、こちらへ」と言って、漁協の建物に案内してくれた。

国内・海外を問わず、旅先で出会った地元の人と話をするのは、楽しい。とくに、小呂島については、私のほうから聞きたいこともたくさんある。

じいさんは、小呂島漁協の組合長なども務めた方で、大正14年生まれ・御年85歳。戦争中は海軍に入り、長崎県の相浦(松浦鉄道沿線)の守備に出征したが、復員後は漁一筋だという。

じいさんが漁協の組合長だった昭和61年ころに、福岡市営渡船小呂島航路が開設されたらしい。それまで、本土との交通は、と問うと、漁協が漁船をあっせんしていたのだという。昔も今も、小呂島を訪ねるのは、私のような物好きか、島の関係者ばかりだから、それで間に合っていたのだろう。

私が興味のあるのは、鉄道と郵便局だが、小呂島で鉄道の話をしても仕方がないので、郵便局について尋ねてみる。現在、島に郵便局がないことは調べ上げてあるが、郵便物の集配をどうしているのか、気になっていた。

じいさんによると、昔から、島内の郵便物の集配は、漁協が受託しているのだという。どおりで、郵便ポストには、取集時刻が書かれていなかったわけだ。郵便事業会社との契約内容の詳細は、ここで書くのを控えるが、なかなか興味深かった。

また、島にないといえば、駐在の警察官も、いない。「島の者ばかりじゃけえ、泥棒はおらん」。

ないない尽くしの島にあって、目に付く猫については、「ねずみが漁の網をかじるけん、ねずみ駆除用に猫がいる」のだそうだ。何でも、尋ねてみるものである。

小呂島の現在の人口は、約200人。島民は、全員知り合いだという。絶海の孤島だけに、一つ気になることがある。だが、なかなか尋ねられずにいると、じいさんは、私の疑問に答えるかのように、こんなことを言った。

「昔から、島の者同士で結婚することが多かったが、あまり血が濃くなると、『かたわ』が生まれたりしていかんけん、だいたい、中学生になると、先生が、○○君と××さんは結婚していいとか、結婚したらだめだとか、言ってくれるものだった」

小呂島で、何より印象的だったのは、この言葉であった。

じいさんとは、40分近く話し込んでいたが、別のばあさんがじいさんと喋りに来たのをしおに、礼を言って漁協を出た。

再び、集落をぶらぶら歩いていると、白衣を着た若い女性3人に出会う。旅行かばんも携えているから、出張診療を終えて、福岡に戻る済生会病院の看護師たちであろう。この出張診療は、じいさんによると、年1回とのこと。今日、小呂島に来ていなければ、そういう取り組みをしていることも知らずに、島を離れるところだった。

彼女たちも、小呂島は珍しいようで、路地で昼寝をしている猫に、携帯電話のカメラを向けていた。

帰りの船は、済生会の医師や看護師が19人も乗ったので、なかなかの盛況だった。

小呂島。そこは、絶海の孤島だが、本土のあちこちで目にする「限界集落」とは異質の、温かい島であった。

もう許さない!高速道路政策の無定見

もはや、理解不能である。民主党政権の「指揮官不在」ぶりは目に余るが、その最たるものの一つが、高速道路政策である。

長年、我が国の高速道路は、旧日本道路公団が建設主体となって整備を進めてきた。その結果、高速道路未整備地域は、今も、ごく一部には存在するものの、基本的には全国ネットワークの完成を見た。平成15年の道路公団民営化で、高速道路の料金収入は長期債務の返済に充て、なお真に必要な高速道路は、国の責任で整備することとされた。

高速道路は、自動車輸送における高速性という付加価値を提供するものであるから、その便益を享受する利用者が、必要なコストを負担することは、当然の道理である。高速道路の無料化は、費用償還が終わった後で考えるべきものにほかならない。

ところが、自公政権時代の昨年3月、いわゆる「高速道路休日1000円」施策(以下、「1000円施策」という)が2年間の期限付きで始まったことで、「受益者負担」原則が狂い始めた。

「1000円施策」は、本来あるべき料金収入を減少させることになるため、その補填として、国は、3兆円の財源を用意した。この財源は、かつて存在した道路整備特別会計ではなく、一般会計である。いわば、税金により、全国民が、高速道路にかかる費用を肩代わりする構図となった。

「1000円施策」が、我が国の運輸業界に与えた負の影響は、計り知れない。マイカーが休日に高速道路に集中したことで、定期路線バスやトラック便の定時性が損なわれた。ただでさえ、厳しい経営が続いていた長距離フェリーは、利用者が激減し、いくつもの航路が消えた。また、鉄道の特急列車や高速バスの利用者減少により、それぞれの輸送モードにおいて「ドル箱」だった路線の収益が低下し、これらの収益による社会的内部補助で支えられてきたローカル輸送を切り捨てざるを得ない状況になっている。

国は、税金を投入してまで、輸送市場における公正な競争環境を破壊した。鉄道、バスなどの事業者の経営努力も「焼け石に水」の状況であり、このまま「1000円施策」が続けば、地方の公共交通は壊滅することになる。国の高速道路政策によって、地域の足が奪われるわけだが、その矛盾を、国は直視しようともしない。

昨年12月、民主党小沢幹事長は、さらなる高速道路整備を望む地方の意見を受け、「1000円施策」を終了し、その財源を高速道路建設に振り向けるよう指示した。平成15年に決まったはずの高速道路整備スキームをいとも簡単に変更することになるばかりか、「無駄な公共事業の削減」などと声高に叫んできた民主党の政策とも矛盾する。民主党における「良心」ともいうべき前原国交相は、当初、もちろん反対したが、小沢幹事長の意向に沿って、いわゆる「高速道路新料金制度」がまとめられることとなった。

この新制度は、高速道路料金を上限2000円とする代わりに、「1000円施策」などの割引を廃止し、高速道路建設のための財源をひねり出すものであった。

ところが、「実質値上げだ」という反発が強いと知るや、4月末、小沢幹事長は、自らが言い出した新制度に「待った」をかけた。

そもそも、「1000円施策」は、時限措置であって、その終了は、「値上げ」でも何でもない。高速道路整備を新たに進めるのであれば、その追加コストを高速道路利用者が負担するのは当然のはずだが、「選挙」しか頭にない小沢幹事長は、そのような論理的思考ができないらしい。

さすがに、前原国交相は、小沢幹事長に対し不信感をあらわにし、「高速道路を作れと言いながら、料金は上げるな、と二律背反のことをおっしゃっている」と痛烈に批判した。前原国交相こそ正論なのだが、民主党は、結局、新料金制度の先送りを決めた。

高速道路料金をめぐる一連の混乱は、政策の無定見の表れである。そして、そのせいで、本来消えなくてもよかった地域の足が失われてゆくことに、深い憤りを覚えざるを得ない。

福岡市民になりました

3月25日、旧職場で配置換の辞令を受け取った私は、その足で福岡に来て、官舎への入居手続を済ませた。

私に割り当てられた官舎は、福岡市城南区の住宅街にある。間取りは、一人暮らしには十分すぎる3DKで、家賃は月額約1万2000円。役所からは直線距離で4キロ余り、自転車で約20分で通勤できる。

これだけ聞くと、「やっぱり公務員はお手盛りだな」と、思われるかもしれない。しかし、さにあらず。

昭和44年しゅん工・築41年の官舎は、想像を超えていた。

一帯の官舎を管理している管理人と一緒に部屋に赴き、古めかしいドアを開けた瞬間、よどんだ空気が鼻をついた。室内のドア(「キュルキュル…」と、ものすごい音を発してスライドするガラス製引き戸)の取っ手にはほこりが積もり、どれだけ善意に解釈しても、廃屋同然であった。

「ご覧のとおりで、もう2年後には取り壊すそうですから、退居時の補修は問題にならないと思います」

人のよさそうな初老の管理人は、私の表情の変化を読み取って、そう言った。しかし、今の私にとっては、退居時の補修云々はどうでもよく、退居までの生活をどうするかが大問題である。

考えてみれば、この官舎が建てられた昭和44年といえば、私が大好きで日本中追いかけた気動車ディーゼルカー)・キハ58系の最後期車が製造されたころに当たる。キハ58系は、増備に増備を重ね、全国で3000両もの勢力を誇ったが、国鉄のJR化後、老朽化により廃車が進み、今や、代替部品の調達も困難な状況となり、JR西日本に6両、JR九州に2両が残るのみとなっている。

そう思うと、キハ58系と同じ時代に生まれた官舎が、無性に愛おしくなってきた。キハ58と共に、日本の高度成長を支えてきた偉大な官舎なのだ。もっとも、そうでも考えないと、室内の掃除だけでも気が滅入りそうであった。

官舎のつくりは、昭和40年代前半の生活水準を色濃く反映している。思いつくままに、一例を挙げてみる。

  • お湯は、基本的には風呂でしか使えない。洗面所や台所でお湯を使うには、今ではほとんど製造されていない「ガス湯沸かし器」を別途自前で取り付ける必要がある。
  • 室内に、洗濯機を置くスペースはない。室内に置こうとすると、風呂場の前の洗面台を使用停止にして、無理やり置くしかないが、排水は風呂場に垂れ流すしかない。
  • エアコンなど、一般家庭にはないのが前提であるので、壁に配管用の穴は開いていない。窓の上部小窓を開けっ放しにして、パイプを通した上で、パテやガムテープなどでふさぐ必要がある。
  • その前に、電気容量の引上げを電力会社に頼んでおく必要がある。さもないと、エアコンと電子レンジを同時に使っただけで、ブレーカーが落ちる。
  • 窓の内側にカーテンレールは1本しかなく、レースのカーテンは設置できない。ついでに、窓には網戸もなく、窓もカーテンも、「開ける」か「閉める」かしかできない。
  • 風呂釜のガスは、ガス会社の人に教えてもらって、コツをつかまないと、点火すらできない。

ざっと、こんなところである。

「一体、どんなところだ」という、怖いもの見たさでもよいので、御関心の向きは、ぜひ福岡へおいでください。

明日、役所に着任する。

パイロットと検事と

かなり前のことになるが、小欄で、ドラマの再放送の魅力について書いたことがある。

http://d.hatena.ne.jp/stationmaster/20051123/1132748673/

昨夜、テレビでやっていた映画「ハッピーフライト」を見ていると、同じく飛行機を舞台にしたドラマ「GOOD LUCK!!」を無性に見たくなったので、今日、TSUTAYAでDVDを全巻借りてきて、6話まで一気に見た。

GOOD LUCK!!」は、平成15年1月〜3月に放送された。まだまだ、最近のドラマのように思うけれど、そこここに7年という月日の流れが感じられた。ドコモの「mova」(PDC方式)時代の携帯電話機など、もはや骨董品級であるし、航空マニアの視点で見れば、機首に「全日空」と漢字で書いたB747-400(いわゆるジャンボジェット)が国際線に就航しているというのも、「古き良き時代」となってしまった(ANAの機体ロゴは、現在、「ANA」に統一され、B747-400は国際線から引退している)。

それはとにかく、7年前にこのドラマを見た時、私は、まだ学部2回生であった。7年前と比べて、自分がどの程度成長したかは心許ないが、少なくとも、社会人にはなった。

そういう自身の境遇の変化を踏まえて、もう一度、このドラマを見ていると、気づかされたことがある。

7年前、学生だった私は、キムタク演じる破天荒なパイロットに、「こんなパイロットおらんやろ」と思っていた。もちろん、航空専門家から見てありえないことが多いのは、ドラマの演出として目をつぶるとしても、もっと根本的な、パイロットの描かれ方に対する疑問であった。

ところが、7年ぶりにこのドラマを見てみると、不思議なくらい、主人公に感情移入ができて、違和感はほとんどなかった。もっといえば、主人公の生き方に、社会人2年目を迎えた私自身が、だぶって見えた。

パイロットと検事は、組織に所属して仕事をするが、最終的な責任は、個人が負うという共通点がある。

私は、上司に対する「報告・連絡・相談」は怠らないようにしているつもりだが、ともすれば独断専行に走るきらいがあるのを自覚している。

この私に対する分析は、私が最も尊敬し、信頼する上司から指摘されたので、間違っていないと思う。

「決断をするためには、まずは冷静な分析が必要だ。」

主人公の副操縦士に対する機長からの指導は、私に対する指導そのものなのだった。