御霊よ、安らかに

わが国が大東亜戦争に敗れて、61年が経った。今日の日本の平和と繁栄は、ひとえに、あの戦争で亡くなられた方々の尊い犠牲のうえに成り立っている。謹んで、御霊のご冥福をお祈り申し上げる。

「8月15日」という日に、小泉首相靖国神社を参拝したことは、たいへん意義深い。日本国のために散華あらせられた246万柱の英霊に、日本国を代表して尊崇の念を表するのは、当然のことである。言い換えれば、これは日本国の問題であり、小泉首相の言うとおり、「心の問題」である。

ところが、世の中には、これほど簡単な道理が理解できぬ人たちがいる。中国・韓国と、それに呼応する左翼の人たちである。彼らの主張は、要約すれば、つぎのようなものだ。「A級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝することは、侵略戦争の美化・軍国主義の復活である」(以下、軍国主義復活論という)、「戦没者の慰霊じたいは国内問題だとしても、国際社会の反発にも拘らずあえて参拝するのは、『偏狭なナショナリズム』を煽るだけだ」(以下、偏狭ナショナリズム論という)―。

まず、軍国主義復活論についていえば、主張自体失当というべきであろう。小泉首相が、一度でも、「あの戦争は正しかった」というような発言をしただろうか。その答えは、否である。小泉首相は、一貫して、大東亜戦争を反省する立場から、召集されて死んでいった多くの一般兵士たちの冥福を祈っていると明言している。戦後60年、日本は一度でも、好戦的な態度をとったことがあるだろうか。10年以上にわたって、毎年10%以上も国防費を増額し、潜水艦でわが国の領海を侵犯したり、台湾の総統選挙に際して、台湾海峡で大規模なミサイル発射・揚陸作戦演習をするどこかの国のほうが、よほど「軍国主義」である。

つぎに、偏狭ナショナリズム論だが、この主張をする人たちは、自らの生まれ育った国の伝統・文化・歴史を尊び、ふるさとを愛するという、人間として当たり前の感情をも否定したがる。「愛国心」は、統治機構を愛することにつながる、などと言うのだが、そんな馬鹿な話はない。例えば、オリンピックや、サッカーのワールドカップで、「日の丸」を振り、「君が代」を歌って応援するのは、日本人としての自然な感情の発露以外の何物でもない。

近時、北朝鮮による日本人拉致に対する日本国民の抗議など、純粋な「愛国心」がクロースアップされ、それが正しく理解されるようになると、左翼の人たちは、愛国心ないしナショナリズムそのものを否定するのは困難と感じ始めたらしい。その結果、ナショナリズムを「二分」し、靖国神社の参拝などは、排外主義的な「偏狭なナショナリズム」である、という主張が出てきたのだ。

日本は、古来から、大陸や朝鮮半島の進んだ技術を採り入れ、この国の文化をより豊かなものとしてきた。明治以降は、西洋の制度を参考に、アジアで唯一の近代立憲国家を建設した。このことからいえることは、日本は、他国の文化に対して、きわめて寛容であるということだ。しばしば自虐的に、「日本人は、正月は初詣、クリスマスを祝い、大晦日は除夜の鐘」などといわれるが、こうした現象は、なにも戦後に始まったものではない。日本人は、儒教から礼節を、仏教からは自律を、神道からは祖先への尊崇と自然への畏怖を学び、これらが相まって、高い「道徳観」を形づくってきた。つまり、「偏狭なナショナリズム」など、この国には存在しないのである。

あえていえば、事あるごとに感情的に「反米」を叫ぶような主張こそが、偏狭なナショナリズムである。靖国神社の参拝は、日本人自身の心の在り方の問題であって、それに干渉しようという姿勢こそが、彼らの国粋主義的な思想の押し付けに他ならない。他国の大使館に投石したり、他国の国旗を燃やしたりする行為は、「偏狭なナショナリズム」ではないというのだろうか。

最後に、大東亜戦争末期、鹿児島県知覧の飛行場から特別攻撃隊として出撃した、鷲尾克己陸軍少尉(当時23歳)の日記を紹介する。

如何にして死を飾らむか
如何にして最も気高く最も美しく死せむか
我が一日々々は死出の旅路の一里塚

はかなくも死せりと人の言はば言へ
我が真心の一筋の道
今更に我が受けてきし数々の
人の情を思ひ思ふかな

安倍晋三美しい国へ』(文藝春秋、平成18年)より