私と○○バトン

mixiで「むりゃかみ」さんより受け取った、ちょっと変わったバトン。○○の部分には、回す人がテーマを指定するみたいで、「ローカル線」だそうです。ということで、「私とローカル線」について…

Q1.パソコンまたは本棚に入っている「ローカル線」

私の部屋には、2面の壁に、図書館のような天井まで届く作りつけの本棚が3つあり(特注品)、そのうち2つは鉄道関係の書籍で埋まっています。まあ、「時刻表」と、13年間毎月欠かさず購読している雑誌2冊が大半のスペースを占めているわけですが。それはとにかく、思い入れのある1冊を紹介するとすれば、『日本の鉄道 全路線5 JR西日本鉄道ジャーナル社、平成元年)でしょうか。

国鉄分割民営化・JR移行にあたり、「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」という法律によって、全国で83線区・3100キロものローカル線が、昭和58年の北海道・白糠線に始まり、平成2年の宮津線・鍛冶屋線まで、怒涛のごとく廃止されてゆきました。この法律ができた当初、国鉄部内でも、これだけのローカル線が廃止できるとは想定していなかったようで、廃線反対派の抵抗を見越して、大風呂敷を広げた感がありました。計画というのは、そういうものです。

ところが、蓋を開けてみれば、廃止申請に至った全線が(冬期の道路事情が悪い線区などは、この段階で除外されました)、滞りなくバス転換・第三セクター移行が完了してしまいました。国鉄と同じく民営化に至った道路公団では、「新直轄方式」とやらで、いつの間にか改革は頓挫、結局、地方道はこれからもどんどん建設されるのとは対照的です。

話が逸れましたが、要するに、昭和57年生まれの、「物心 ついた時には JR」(←川柳になっています、一応)世代の私にとって、「乗りたかった!」と思うようなローカル線は、夢でしか会えない存在なのです。もちろん私は、廃線になった線区も、代替バスが走っているところは、バスで辿ることにしていて、廃線跡探索のための資料になる本は、たくさん持っています。

しかし、やはり、列車で乗ってこそ、ローカル線の旅というもの。そうすると、JRに継承された線区を中心に、乗り歩くこととなります。さて、紹介した『日本の鉄道 全路線5 JR西日本』は、鉄道専門情報誌(趣味誌ではない)を手がける鉄道ジャーナル社が、JRグループの発足を記念し、旅客会社ごとに、その会社の路線を1つずつ写真つきで紹介したシリーズもので、JR西日本の線区が全て紹介されています。

今の私なら、JR北海道からJR九州まで、全巻揃えたでしょうが、買った(正確には、買ってもらった)当時小学生だった私は、「大きくなったらJR西日本に入る!」と公言していたくらい(小学校の時の同級生のお父さんに、JR西日本幹部の方がいて、「よろしくお願いします」と挨拶していたほど)JR西日本が好きで、とにかく、「JR西日本」と名の付く本が欲しかったのです(今でも、私は、JR西日本、と聞くと、恋人の名前を呼ばれたような感覚になります。また、好きな色を聞かれれば、迷わず「青」と答えているのも、JR西日本のコーポレート・カラーだからです)。

今まで、この本は何回開いたかわかりません。私は、大事な本は丁寧に扱うほうですが(お菓子をつまみながら読むなど論外で、ちょっとでも手が汚いときは、石鹸で手を洗ってから触ります)、かなりボロボロになっています。もちろんこの本は、JR西日本管内のローカル線だけでなく、東海道本線を疾走する117系「新快速」(今の223系の二世代前の車両です)なども載っていますが、JR西日本管内は、「偉大なローカル線」・山陰本線をはじめ、中国地方の各線など、ローカル線だらけといってよい状況です。大阪で生まれ、大阪駅で何時間も列車を見て育った私には、線路脇に「柵」がないローカル線の存在は、それだけでカルチャーショックでした。

この本は、今でも大阪の「旭屋」には在庫があるようですので、気になる向きには強くお薦めしておきます(わが家に来てくださってもいいですが)。

Q2.今妄想している「ローカル線」は?

私の頭の中には、「GR」という鉄道があるのですが、このネタを解するのは、ごく少数の読者だけでしょうから、もう少しまともな(?)ことを書きます。ふつうの鉄道ファンが、こんなことを考えるのかは知りませんが、私は、日本があの戦争で負けていなかったら…ということを、よく考えます。といっても、さすがに中国本土や、南方大洋州方面の日本領が現代まであったかはわかりませんが、たとえば、樺太(サハリン)や台湾が、今も日本領だったら、鉄道はどうなっていたか、と考えたりします。

戦前は、植民地の鉄道は、内地(鉄道省直轄)とは別に運営されていましたが、樺太・台湾・朝鮮は、本土から近いこともあって、「時刻表」(当時は「時間表」と呼ばれました)には、一緒に掲載され、連絡運輸の扱いもありました。もし、植民地がそのまま、国鉄分割民営化を迎えていたら、どうなったでしょうか。「JR樺太」「JR台湾」ができているか、JRとは別の形態か−。少なくとも車両は、内地とほぼ同じものが輸出されていたでしょう。

キハ58で台湾を旅したり、キハ40が単行で樺太の原野を走っている様子などを、想像しては、ため息が出ます。なぜ日本は、負ける戦争を始めてしまったのか。あの戦争は「自衛戦争」で、やむをえなかったとしても、ワシントンの日本大使館はなぜ、宣戦布告を遅らせたのか(そのために、「奇襲攻撃」という口実を与えてしまった)。だんだん話が特殊な方向に逸れてきたので、このあたりで。

Q3.最初に出会った「ローカル線」は?

毎年、家族で、中央本線信濃境駅の近くのスキー場に出かけていました。なぜそんなところに、というと、ここの高原でペンションを経営している人と親しかったからなのですが、少なくとも、私の楽しみの半分は、スキーそのものではなく、往復の電車に乗ることでした。新幹線、特急「しなの」、そして塩尻からは普通列車を乗り継ぐことになりますが、子供だった私にとっては、1時間に1本しかない中央本線の鈍行列車は、まさに「ローカル線」でした。

今にして思えば、「1時間に1本ある」ですが。なにしろ、JR西日本の中国地方には、1日3往復しかないローカル線が、ゴロゴロしている(木次線三江線芸備線)ことを、皆さんご存知ですか?

関係ないですが、中央本線信濃境駅は、平成9年のTBSドラマ「青い鳥」の舞台・「清澄駅」となったところです。

もうちょっと時代を下った「ローカル線初体験」は、平成3年に、非電化時代最後の七尾線急行「能登路」に乗ったことでしょうか。もちろんキハ58でしたが、車内にロングシート部分があったように思うので、近郊型改造された車両でした。車内の汚さにびっくりした記憶があります。今となれば、それも「旅情あふれる」となるのでしょうが…。

Q4.特別な思い入れのある「ローカル線」は?

私の一人旅は、平成9年春に、廃止間近の急行「さんべ」(鳥取−小倉、急行運転区間は米子−下関)と、美祢線の大嶺支線に乗りに出かけたことから始まります。なので、この時乗った山陰本線美祢線など、中国地方の路線でしょうか。

行ったことがないうちから、芸備線木次線のジャンクション・備後落合駅にとても興味があり、最初に芸備線に乗った時、「つぎは、備後落合です」という車内放送だけで、背筋がゾクゾクッとなったものです。

中3の秋に、今はなき急行「砂丘」の撮影に、友達と一緒に何度も通いつめた因美線も、思い入れがあります。とくに、当時は駅員もいた美作河井駅は、日本で最も好きな駅の一つです。その後、休みの度に、1回は中国地方に出かけ、木次線因美線に乗ってくるのが年中行事のようになりました。

私はまだJR全線には乗ったわけではありませんが(東京近郊の路線など、意欲がわかないので…)、木次線因美線のように、何度も「乗りなおし」ている線区はたくさんあり、その回数の多い(つまりは、気に入っている)ところでいえば、JR東日本只見線・山田線・岩泉線でしょうか。いずれも、1日3、4往復しかない超過疎路線で、よくぞ生き残ってくれた、という感じです。名だたる豪雪地帯をゆく只見線には、ぜひ一度、冬に乗っていただきたいと思います(今冬は、長期不通となっているようで心配ですが)。

Q5.最後にバトンを回したい人とそれぞれのお題は?

バトンを回すだけでも考えるのに、「お題」もですか!まあ、

りゅう→「馬」、やもーん→「自転車」、某氏→「戦艦」、じじ。→「旅」、ぴゅー→「バド」ってとこでしょうか。皆さんよろしく。

今回は、バトンを回してくれた「むりゃかみ」さんより、「熱く語れ」とのご指示でしたので、ただでさえ普段から熱く語っているところ、さらに「熱く」(中身も厚く)してみました。

一般の読者諸氏には、さらにひかれるのではないか、と恐れているところです。