取調べ―自白

きょう、刑事法の授業(ちなみに、教官は現職の検事さん)で読んだ文献に、日米の刑事裁判について象徴的な一文があった。

佐藤欣子(当時検察官)は、アメリカでの刑事裁判について、しばしば「木の葉が沈んで石が浮かぶ」という感慨を持ったが、アメリカ人ならば「沈んだものが石であり、浮かんだものが木の葉」と答えるであろうと述べ、このような考え方を形式的真実主義ないしは手続的真実主義と呼んでいる。日本の刑事裁判の考え方はさしづめ「石は水中に沈むべきものであり、木の葉は水面に浮くべきもの」ということになろう。

…石井一正「刑事裁判における事実認定について」 『判例タイムズ』1089号

日本人は、刑事裁判は「真実」を明らかにする場だと考えている。公判で、検察官は、被告人の生い立ちから犯行に至るまで、「物語」形式で語り、一つひとつ立証する。

「精密司法」と呼ばれる刑事裁判を可能にしているのは、「取調べ」である。ロシアだったかの警察の言葉には、「死体は誰よりもお喋りだ」というのがあるらしいが、そういう客観的な証拠だけで迫れる「真実」には、限界がある。それに対し、被告人が洗いざらい自白してくれれば、「真実」はよりヴィヴィッドに明らかになる。

実は、私が検察官を志したのは、「取調べ」に魅せられたからに他ならない。といっても、なにもテレビドラマの影響というわけではない。忘れもしない、10年前の実体験に基づくのだが、詳細は、また追い追いお話しすることにしよう。

あえて、ひとつ言うならば、最初は頑強に否認していた者が、ある一線を越えた瞬間、堰を切ったように涙ながらに自白するということが、現実には確かにある。そのことを、私は誰よりもよく知っている。