愛する祖国のために

一日早いが、火曜日の「安全保障論」のレポートを書き上げた。テーマは、「日本国憲法集団的自衛権・国連の集団安全保障措置」。

一応、憲法学説にも触れないといけないので、故・芦部信喜先生の教科書「憲法」を参照。普段、憲法9条にかかわる部分はあまり読まないが(学習上重要なのは、「人権」規定のほうなので)、そこに書かれていることを読むうち、怒りが込み上げるとともに、暗澹たる気持ちになった。

芦部先生は、自信満々にこうおっしゃる。

日本国憲法は、(中略)国際的に中立の立場からの平和外交、および国際連合による安全保障を考えていると解される。このような構想に対しては、しばしば、それが他力本願の考えであるという批判がなされるが、日本国憲法の平和主義は、単に自国の安全を他国に守ってもらうという消極的なものではない。それは、平和構想を提示したり、国際的な紛争・対立の緩和に向けて提言を行ったりして、平和を実現するために積極的行動をとるべきことを要請している。

芦部信喜憲法・新版補訂版』(1999年、岩波書店)55頁)

「ふうん。それで?」

誤解を恐れずに言えば、「馬鹿じゃないの?」と思う。「平和を実現するため」の「積極的行動」はもちろん結構だが、戦後60年、わが国が平和を享受できたのは、日本国憲法のおかげでは断じてなく、日米安全保障条約の賜物であるということを、おわかりになっておられないようだ。

核ミサイルで恫喝してくる北朝鮮に対して、「平和構想を提示」することで、日本の平和と安全を守れると考える能天気さは、もはや白痴的である。

…いかん。先日、憲法の授業で当てられた時もそうだったが、思想が入ると、思わずヒートアップしてしまう。だが、最後に一つ言っておきたい。憲法に「平和」と書けば平和になるのなら、どこの国だってそうするはずだ。しかし、現実はそうではない。

憲法守って国滅ぶ」「国敗れて憲法あり」

そんなことになっては、元も子もない。