非核四原則?

 「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」と言い慣わしてきた「非核三原則」に、いつの間にか、もう一つ付け加わったようだ。「議論すらせず」というのが、それである。

 野党は、麻生外務大臣が日本の核武装論議を容認する発言をしたことに抗議し、外相不信任決議案の提出も検討しているという。注意しておくが、「核武装」の容認発言ではない。「論議」である。

 社民党の福島党首に言わせれば、「日本は唯一の被爆国であり、核をめぐる議論をすること自体、おかしいと思う」のだそうだ。論理破綻もいいところで、ご自身の発言も「核をめぐる議論」そのものであることに、気づいておられないらしい。

 強調しておくが、私は、日本の核武装には「反対」である。わが国が核を持つことを、合衆国は決して容認しないだろう。先日、ライス国務長官は、合衆国の「核の傘」の提供を強調したが、それはつまり、日本が独自の核武装に突き進むことへの懸念の現れである。もちろん、日米同盟を破棄したうえでの「自主自立」は、究極の理想ではあるが、現実的ではない。わが国は、エネルギーも食糧も、外国との貿易なしでは生きてゆけない「海洋国家」である。NPT(核不拡散条約)体制から脱退し、現在の北朝鮮のような制裁を課されては、とても耐えられない。

 「核兵器は悪だ」などという観念論から思考停止に陥ってしまうのではなく、核政策の是非を冷静に議論することが、重要である。しかし、左翼の人たちの言うように「議論もだめだ」となると、上記のような「核武装反対」の論証すらできないことになる。

 おそらく、左翼の主張は、こう続くのであろう。「戦後60年、日本は、憲法9条のもと、平和を享受してきた。平和主義を墨守すべきだ」と。しかし、この理屈は、およそ真っ当な議論とは言いがたい。口先で「平和」と唱えて平和になるのなら、これほど幸せなことはないのだ。