203高地に立つ

stationmaster2006-01-08


大連の日差しは、やわらかい。連日、−20℃〜−10℃の世界で過ごしてきた身には、日中は+1℃になる大連は、南の国に来たかのようだ。

午前中は、大連の路面電車乗りつぶしや、中山広場周辺に残る日本時代の建築を見て過ごし、午後は、旅順へ向かった。旅順は、天然の良港・旅順港を抱え、日露戦争最大の激戦地である。現在の中国海軍にとっても要衝であり(近年その重要性は低下しているが)、旅順への外国人の立ち入りは「原則禁止・例外許容」となっていて、個人では行きにくい。

そこで、旅順半日ツアーに申し込んでおいた。ホテルのロビーで、ガイドと合流。ツアーというから、観光バスでぞろぞろ移動するものと覚悟していたが、私一人の専用車であった。ガイドが、容姿端麗な若い女性というのも、なおよい。俄然テンションが上がった。

日露の詳細な戦史を語る能力は私にはないが、明治37年夏、旅順の攻防戦が始まった。乃木希典将軍率いるわが軍は、甚大な被害を出しながら、攻略することはできなかった。その模様は、「生卵を壁にぶつけるよう」とも形容される。

同年晩秋、天王山の「203高地」を奪取する作戦が始まった。乃木将軍の子息・乃木保典も戦死するほどの激戦の末、翌明治38年1月1日、停戦協定が結ばれ、わが方勝利となった。

死屍累累の203高地に、私は立っている。霧に霞む旅順港を眺めながら(写真)、ポケットの靖国神社のお守りに、そっと手を触れた。

203高地からの下り道は、急な石段になっている。残雪が凍っていて、非常に滑りやすい。と、ガイドが、小さな悲鳴を上げて、足を滑らせた。

私は、とっさにガイドの手を取った。手をつないでいる時間は僅かだったが、たまには、こういうハプニングもいい。

幾多の先人が散華あらせられた旅順を回りながら、私はガイドに、次の言葉を紹介した。

「百年、兵を養うは、ただ平和のためなり」

日米開戦に最後まで反対しながら、運命のいたずらか「真珠湾」の指揮を執ることとなった、山本五十六連合艦隊司令長官の言葉である。