1月17日

また、この日がやってきた。1月17日。奇しくも今年は、あの日と同じ「火曜日」。

あの朝、異様な「重さ」に目を覚ますと、かけ布団の上に、枕元にあったはずのタンスが、ズシリとのっかっていた。家族はその光景を見て、私が死んだと思ったらしい。

そのタンスは、上下に分かれるようになっていたが、あまりの揺れに、頭の上を飛び越えて、体の上に落ちてくれたので、私は一命をとりとめた。

家の中は、タンス・食器棚・冷蔵庫・洗濯機・金魚鉢など、あらゆるものが引っくり返っていた。電気は当然つかず、水道・ガスも出なかった。とりあえず、学校に行くと、「本日は臨時休校」という張り紙があった。

電気は、当日の昼過ぎに復旧したが、水道・ガスは長引いた。「給水車が来る」というので、近くの公園に並んだら、デマだった、ということもあった。徐々に水圧が回復し、翌日くらいには、家の中はだめだが、外にある水道は、使えるようになった。この時の「ほっ」とした気持ち、今も忘れられない。

学校のほうはというと、鉄筋コンクリートの校舎は傾き、倒壊の危険があるというので立入禁止になった。一週間くらい、校庭に集合して、出欠だけとって解散、という日が続いた。体育館には避難してきた人たちが押し寄せ、校庭は、駐車場のようになっていた。幸い、私のクラスで、死者・けが人はいなかった。

当時、小学校6年だった私は、中学受験を控えていたが、しばらく勉強どころではなかった。あの時点で、西大和の試験は終わっていて、東大寺洛星の受験票を、散乱した家具の中から探すことから始まった(念のために各学校に電話したら、なくても構わない、という返事だった)。

地震から2、3日後に、阪急神戸線が梅田から西宮北口まで開通し、十三にある塾に通えるようになった。物資豊富な大阪に「買出し」に行く人たちで、電車は異常に込んでいた。塾に着いて、先生や友達と、お互いの無事を喜んだ。が、算数の先生は、自宅の下敷きになって亡くなった、という掲示があった。親友の一人は、自宅が全壊して、避難所から通ってきていた。ちなみに、彼とはその後、別々の中高に進んだが、京大法学部で、再び同じクラスになった。いまは、兵庫県庁で働いているはずである。

学校は、隣の校区の小学校の空き教室に間借りすることになった。先生たちが「決死隊」を組んで、倒壊の恐れのある教室から、机・椅子などの備品を運び出し、保護者・児童総動員で引越作業をしたそうだ(伝聞なのは、その日、中学入試と重なり、休んでいたからである)。

あの時は、何を見ても驚かなかった。最寄りの阪急武庫之荘駅の前では、高層マンションの1階部分が押し潰され、2階が1階になっていた。その後、崩壊部分はブルーシートで覆われたが、夏くらいまで、そのままだった。昨年4月、福知山線事故の現場に駆けつけた時、10年前のこの光景が、フラッシュバックした。

私より、もっと辛い体験をした人はいくらでもいる。ただ、ともかくも大変な時代を生き抜いた一人として言えるのは、「命を大切に」ということだ。人は、死ぬときは死ぬ。人生に、無駄にしてよい時間などない。

1月17日が来る度に、そう思う。あの地震で亡くなった方々のご冥福を、祈りつつ。