現場で思う

夕方、三度目の現場に立った。多くの人が手を合わせ、線香の匂いが、辺りに立ちこめていた。

JR西日本をはじめ多くの鉄道事業者は、福知山線の事故で「我に返った」のではないかと思う。あれほど悲惨な事故は、どこか遠い外国の話で、日本では起こらないかのように「錯覚」していた。マスコミが好んで使う「安全神話」という言葉。もとより、そんな神話は存在しないのだが、どこかに隙があった。

こういう事故が起きると、世論は、組織のトップを吊るし上げ、「絶対安全」という言質をとろうとする。続いて、トップの進退という、不毛な議論が始まる。

誤解を恐れず、あえて言う。「絶対安全など、『絶対に』ありえない」。事故は、起こるときには起こるのである。

しかし、だからといって、開き直っていいわけではない。人間は神様ではない以上、事故をゼロにすることはできないが、限りなくゼロに近づけることはできる。これこそが、「技術者」の存在意義である。たまたま、運良く、事故を起こさないより、起きてしまった事故の原因を究明し、対策を打つことのほうが、よほど価値がある。

我々が理解しなければならないのは、「責任追及」と「原因究明」の区別である。事故が起こると、すぐに警察が「捜査」に乗り出す日本では、まだまだ、この認識が欠けているといわざるをえない。

後ろ向きの「犯人探し」ではなく、事故の教訓を将来に活かすことが、犠牲者の無念に報いるみちだと信じる。