死に急ぐな―『葉隠』が語るもの

今日の日記は、私にしては珍しく、人に強く訴えたい内容である。

ここ最近、「学校」関連の自殺が相次いでいる。生徒がいじめを苦に自殺、というケースが数例続き、茨城では、「必修科目未履修」校の校長先生が自殺した。

自殺した人は、それなりに悩んだうえで結論を出したのだろうから、「生きていればきっといいことがある」などと、安っぽいヒューマニズムを語るつもりは毛頭ない。だが、しかし、だ。死んでしまっては、どうにもならないではないか。

先日の日記で、私は『葉隠』に心酔している、と書いた。同書の最も有名な一節は、「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」であり、一見、死を賛美しているように読める。だが、それは浅はかで一面的な理解でしかない。

たしかに『葉隠』は、迷ったら死を選べ、とも言っている。だが、『葉隠』のバックボーンに連綿としてあるのは、「死」の誘惑が、「生」をより輝きある、有意義なものにしてくれる、ということである。たとえば、『葉隠』は、次のように語っている(以前、「忍ぶ恋」の一節を引用したところ、現代語訳を載せてくれ、という要望が多かったので、原典ではなく、現代語訳版を引用する)。

五、六十年前までの武士は、毎朝、行水をし、頭髪をそり、髭に香をつけ、手足の爪を切って軽石でこすり、そのうえこがね草でみがいたりして、怠情にならず、もっぱら身だしなみに気を配り、しかも武道について一通りのことは一心に励んだものである。身だしなみに気を配ることは、一見しゃれ者みたいに見えるかもしれないが、それは風流心からくるのではない。いますぐにも討ち死にだと決意をし、仮になんの身だしなみもなしに討ち死にしたら、普段の気の緩みも現れ、敵に馬鹿にされ、いやしまれたりするので、老いも若きも身だしなみに気を配ったのである。(中略)

いつも討ち死にのつもりで死に身になりきって、奉公にも精出し、武芸にも励めば、恥をかくこともないものを、そのことに気がつかず、欲得、わがままばかりで一日一日を過ごし、いざというときには恥をかくが、それを恥とも思わず、自分だけがよければあとはどうなっても構わないなどと言って、とんでもない行状になってしまうなど、かえすがえすも残念なことだ。

ふだんから必死の決意のないものは、必ずや悪い死に方をするに決まっているのだ。また、ふだん必死の思いで過ごしていれば、どうしていやしむべき行為などするだろうか。このへんの事情をよく考えるべきである。
(山本常朝『葉隠』(笠原伸夫訳)―三島由紀夫葉隠入門』所収)

いかがであろうか。『葉隠』は、「死」を覚悟することが、現世でのよりよい生き方につながる、と説いているのである。

そのうえで、いじめなどの理由で、自殺を考えている諸君に告ぐ。簡単に死んではならない。あなたが死んでも、あなたをいじめた人たちは、何とも思わないのだ。あなたの死は、犬死となる。それでは、悔しいではないか。

偉そうなことを書いている私自身、実は一時期、「いじめる」側にいたことがある。いじめっ子の意識として、仮に対象者が自殺したとしても、そのことに衝撃を受けて、考えを改めるかといえば、決してそんなことはない。「死ぬ勇気があるなら、死ね」とまで思っていた。

いじめる人間がいじめをやめるのは、自らの「弱さ」を自覚した時である。それは、あなたが自殺することとは関係ない。学校でいじめられているなら、学校になんぞ行かなくてもよいではないか。死んでは「負け」である。生きて、生き抜いて、あなたをいじめる奴を、見返してやろうではないか。