比較不能な価値の迷路

きょう・3月18日は、JRグループダイヤ改正の日である。

今回の改正は、どちらかというと地味なもので、地域的な輸送改善・効率化が中心だが、全国的に進展するものが一つある。

それは、「特急列車の全面禁煙化」である。

JR北海道JR東日本では、新幹線を含む全ての特急列車が全面禁煙となり、JR西日本では、所要時間がおおむね2時間程度までの特急列車は全車禁煙、その他の列車でも禁煙車が拡大される。なお、東海道・山陽新幹線については、7月1日改正でデビュー予定の新型車両「N700系のぞみ」が全車禁煙となる予定だが(喫煙コーナーは設置される)、今のところ、全面禁煙化の予定はない。

煙草を吸わない私は、禁煙車が拡大することに異存はないが、ある程度乗車時間の長い列車まで、全面禁煙にするのには疑問なしとしない。

ところで、日本の航空業界では、国内線・国際線ともに全面禁煙となって久しく(平成10年3月完了)、煙草の苦手な人たちが、禁煙席目当てに我先にチェックインする(あるいは、その逆も)光景は、すっかり過去のものとなった。今では当たり前の「事前座席指定」などのサービスも、当時はビジネスクラス以上にしかなかった。

鉄道の場合、航空機と違って、車両ごとが独立した「空間」であり、空調システムが別系統ということもあって、これまでは、禁煙派と喫煙派が「共存共栄」で進んできた。伝統的に喫煙率の高かったわが国では、禁煙車の普及はむしろ遅かったといえる。

一昔前までは、東京・大阪圏などの「通勤電車」(わかりやすく言うと、車内の座席がベンチ状の「ロングシート」の電車)こそ禁煙だったが、郊外まで足を延ばす「近郊電車」(同「ボックスシート」の電車)や、地方のローカル列車などでは、窓の下に灰皿があり、喫煙は自由だった。若い読者は、「普通列車で喫煙なんて!」と驚かれるかもしれないが、JRの普通列車が全面禁煙となったのは、平成5年春のことである。

特急列車のテンポも遅く、ようやく昭和50年代に入って、新幹線「こだま」号の自由席に1両だけ禁煙車が設置される(「ひかり」号には設定なし)。現況を知る我々にすれば隔世の感があるが、圧倒的多数の愛煙家の反発を恐れた国鉄は、なかなか禁煙化に踏み切れなかったのである。

そんな国鉄に対し、禁煙車の拡大と、慰謝料の支払いを求める訴訟が起こされたりもしたが、裁判所は、原告の請求を棄却している(東京地判昭和62.3.27判時1226号33頁)。

さて、「喫煙」をめぐる議論は、善悪で決着がつくものではない。健康上は、煙草は「百害あって一利なし」なのは明らかだが、だからといって、喫煙者に対し、「煙草を吸うのは悪いことだ」と言ったところで、議論はかみ合わないのである。何人も、自分の生き方を自分で決める権利(自己決定権)があり、これは、憲法上保障された基本権の一つである(憲法13条)。

もちろん、公共の建物内などを「禁煙」にすることが、直ちに喫煙者の基本権侵害になるわけではないが、禁煙化の理由づけには、よく注意する必要がある。というのは、一部で主張される「嫌煙権」なる概念を持ち出すことは、あってはならない、ということだ。

論者によって定義は異なるが、嫌煙権とは、「私は煙草が嫌いだから、煙草を吸わないでくれ、と他人に要求する権利」のことである。

一方、こんなことも言われることがある。
「レストランなどで、食事の合間に、同席の人に断りもせずに煙草に火を付ける人がいる。けしからんことだ」

これは、私も全面的に同意する。だが、それはマナーの問題であって、「嫌煙権」の主張とは質が違う。

結論を急げば、嫌煙権は、「排除の論理」に他ならない。戦前のドイツで、ナチス国家社会主義ドイツ労働者党)政権が、「ドイツは、ドイツ人の国だから、ユダヤ人は抹殺さるべきだ」と主張したのと、質的に何ら異なるところはないのである。

たかが煙草、されど煙草。愛煙家の権利も、嫌煙家の権利も、同価値であって、どちらかが優れているわけではない。このことは、よく理解しておく必要がある。嫌煙権などのアヤシイ主張は、眉に唾をたっぷりつけて、聞かなければならない。

私としては、愛煙家のお客様が、引き続きJRをお選びいただけるのなら、もとより文句はないのであるが。