四十年裁判のその先へ

本当は、能登半島地震の被災者救助における自衛隊等の役割について考察したかったのだが、「画期的」で、「とんでもない」最高裁判決が出たので、先に、その紹介をする。

最高裁平成19年3月27日第三小法廷判決

要旨

「1 原告として確定されるべき者が,訴訟提起当時その国名を「中華民国」としていたが,昭和47年9月29日の日中共同声明によって「中華人民共和国」に国名が変更された中国国家であるとされた事例
2 当事者の代表権の消滅は,それが公知の事実である場合には,相手方に通知されなくても直ちにその効力を生ずる
3 外国を代表して外交使節が我が国で訴訟を提起した後に,我が国政府が上記使節を派遣していた政府に代えて新たな政府を承認したため,上記使節の代表権が消滅した場合には,上記使節から委任を受けた訴訟代理人がいるとしても,上記代表権の消滅の時点で訴訟手続は中断する
4 上告審は,職権探知事項に当たる中断事由が存在することを確認して原判決を破棄する場合には,必ずしも口頭弁論を経ることを要しない」


http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070327172350.pdf


本件は、「光華寮事件」と称され、わが京都大学とも深い関わりのある事件である。事件の舞台・光華寮は、戦前、京都帝国大学が民間の所有者から賃借し、中国人留学生寮として使用していたが、わが国の敗戦とともにこの制度は終了した。その後も、留学生らが引き続き居住を続けていたため、昭和25年ころ、中華民国政府が本件土地建物を購入し、昭和36年、所有権移転登記を了した。

ところが、居住者らが管理に従わないとして、昭和42年、中華民国政府が、所有権に基づき、本件建物の明渡しを求める訴えを提起したものである。

以来、今日の最高裁判決まで、40年。なぜ、こんなに時間がかかったのかといえば、いわゆる「一つの中国」の正統性(中国代表権)問題と絡み、北京政府と台湾政府の「代理戦争」となったからである。すなわち、本件提訴後の昭和47年、日本は、中華人民共和国日中共同声明を締結し、台湾(中華民国)と断交したため、本件原告の「当事者能力」が争われたのである。

本件では、これまでに、4つの判決が出ている(一審・二審・差戻し後一審・差戻し後二審)。原審(大阪高判昭和62.2.26判時1232号119頁)は、台湾の当事者能力を認めたうえで、日本政府による中国「政府承認」の切替は、光華寮の所有権に影響を及ぼさない、として、京都地裁に差し戻していた。ちなみに、この判決が出たその日に、北京の中国外交部(外務省)が会見を開き、「不当判決」と批判したことを、銘記しておく。

そして、きょう。上告から20年を経て出された最高裁判決は、けだし画期的なものといえる。一時は、最高裁は、外交的配慮から判決を出し渋っている、これは、裁判を受ける権利(憲法32条)の侵害だ、とまでいわれていたからである。

一方で、その内容は、「訴訟代理権」の問題として処理するという、予想もつかないものだった。政府承認の効果という、国際法上の実体問題には踏み込まず、民事訴訟法の手続の問題として処理したところに、最高裁の「慎重さ」が窺える(本判決じしん、「本件建物の所有権が現在中国国家以外の権利主体に帰属しているか否かは別として」と、断っている)。

そのうえで、最高裁は、審理を三度、京都地裁に差し戻した。提訴から40年を経て、この稀に見る特異な事件は、振り出しに戻ったのである。