さようなら、関西

明日(25日)朝の飛行機で、いよいよ秋田に赴任する。

5月20日の土曜日に司法試験最終日が終わってからの半年間は、長いようで短く、思った以上に有意義な日々だった。

試験直後、何も手につかないであろうことはわかっていたので、3週間、南部アフリカへ逃亡。
インフレのジンバブエで出会った人たちは、いま、どうしているだろうか。
ジンバブエ国鉄・ハラレ駅の元駅長氏、ヴィクトリアフォールズの人の良さそうなガイド…。
そして、国際夜行バスの中で知り合い、ナミビアの首都・ウィントフックでデートした、同い年のザンビア人の女の子・ミミ。
9月にミミが学校を卒業して以来、メールが途絶えたままなのが気がかりだが、サービス業に就職して、忙しく元気に働いているのだろう。
憧れの喜望峰に立った感動とともに、そしてそれ以上に、懐かしく思い出されるのは、アフリカで出会った人たちの顔ばかりである。

アフリカから帰国後、7月前半の2週間は、自宅で、鉄道の本を読んで過ごした。この時に、アフリカの旅行記を書き上げるべきだった。現在に至るまで完成していないのは、心苦しい限りである。

7月20日、たまたま、JR西日本のお客様センターでアルバイトを募集しているのを知り、応募。
即日採用され、「史上最速」で戦列に。それからの3ヵ月、毎日ひたすら「時刻表」を繰り、現場の駅に鉄道電話をかけ、MARS(指定券発券コンピュータ)をいじった。

9月13日、合格発表。合格の嬉しさというより、「安堵」感しかなかった。

10月初め、民営の「日本郵政」発足を横目に、高校時代の友人と、沖縄へ。
国内全都道府県制覇。沖縄はまだ夏で、日焼け止めも塗らずに海に入ったら、皮膚がボロボロになった。
そして、「ゴーヤー」は、実はうまい食べ物だと知る。

10月13日、9月いっぱいでJRを辞めるつもりが、上司に引き止められ、この日限りで退職。中にいると、見たくないところも見えてしまい、嫌になることもあった。
現場の仕事は、楽しく、厳しかった。もっともっと、鉄道が好きになった。

10月後半は、1週間、九州を周遊。当面、国内で行きたいところは、すべて片づけた。
ただ、阿蘇山の火口が、火山ガス規制で見られなかったのは残念だった。


その翌週は、フランスへ。まだ、日記でも書いていなかったので、一挙公開。
(〜は地上移動、→は飛行機での移動を示す)

・10/29 自宅〜関西空港→パリ

出発早々、関西空港までのJR阪和線がストップ、振替輸送の南海「ラピート」(特急券別途)で、チェックイン締め切り20分前に滑り込む。
エールフランスは、乗員組合のストライキの影響で、最低限の要員しか乗務しておらず、時間のかかるサービスは省略。機内食は温かいメインディッシュがなくなり、冷たい生ハムのサラダが2品もあった。

宵にパリに着き、パリ南西部、国鉄モンパルナス駅付近の小さなホテルに投宿。手動ドアのエレベーターなど、久しぶりに見た。
近くの「カフェ」で、オムレツの夕食。円安・ユーロ高で、これだけで1500円。
エスプレッソのコーヒーがおいしいのは嬉しい。

・10/30 パリ〜ボルドーマルセイユ

パリ・モンパルナス駅から、TGV(フランス版新幹線)で、ボルドーへ。TGVは、車内のシートピッチが、飛行機のエコノミークラス並みに狭く、座席も回転できない(集団見合い式)。居住性は、日本の新幹線の圧勝である。ただ、デッキに荷物置きがあるのはよい。

ボルドー駅のカフェで、コーヒーを飲みながら1時間待ち、在来線の急行(コライユ)でマルセイユへ。車内は、TGVよりゆったりしている。座席が回らないのはTGVと同じで、半数の客は後ろ向き。
途中、隣の線路の保線作業などで徐行する区間が長く、マルセイユ到着は50分近く遅れた。

駅からタクシーでホテルまで行こうとすると、運転手が手を振って、「ベリー・ニアー」と一言。
歩いても5分くらいであった。
マルセイユは、「ブイヤ・ベース」の本場だが、夕食は、地場のファーストフードで済ませた。

・10/31 マルセイユ〜リヨン〜ジュネーブ(スイス)

マルセイユは、地中海に面した港町。天気予報に反し、朝から快晴。「旧港」まで散歩に。
無数のヨットが港を埋め、陽光が眩しい。思わず、南アフリカケープタウンや、ニュージーランドオークランドを思い出し、しばし感傷に浸る。

漁師たちが、釣り上げてきたばかりの魚を、屋台で売っている。それらを買いに来る地元の人や、港クルーズの観光客で、「旧港」はいまも賑やかだった。

1時間ほどのんびりして、ホテルに戻りかけると、目の前で、人が車にはねられる瞬間を目撃してしまう。
幸い、被害者に意識はあり、目立った外傷はなさそうだ。周りの人が救急車を手配。フランス語のできない私は、推移を見守るだけである。

マルセイユ駅から、TGVで、リヨンへ。高速新線を300キロで飛ばすのは爽快。日本の新幹線と違って、煩わしいトンネルがまったくないのがよい。北海道にしかないような平原が広がっている。フランスは、大「農業国」ということを実感。

TGVの線路と、牛が草を食む牧場との間に、まともな柵のないところまであり、これはヒヤヒヤした。公衆立ち入りや、運転阻害は発生しないのだろうか。

リヨンは、わが母校の総本山・聖ヴィアトール修道会の本部がある街だが、乗り継ぎ時間が59分しかないので、リヨン駅構内のカフェでエスプレッソを飲んで待つ。

ジュネーブゆきの列車もTGVだが、リヨンから先は、走るのは「在来線」。
日本と違い、新幹線(高速新線)・在来線の線路の幅が同じなので、新幹線がそのまま在来線に乗り入れるという芸当ができるのだ。旅客サービスとしてはよいが、在来線のダイヤの乱れの影響を受けやすくなるので、一長一短である。
列車は、時速130キロ程度ので1時間あまり川沿いに走り、スイスとの国境地帯に差し掛かる。
周囲は山深く、通り過ぎる小駅もローカル線の風情だが、走る列車はTGV、線路は複線電化の立派なもので、ちぐはぐな感じだ。

ぽつ、ぽつ、と人家が見え始め、いつの間にか国境を越え、夕暮れのジュネーブ駅に到着。

フランス方面のTGVが発着する専用ホームと出口との間で、パスポートコントロールが行なわれる。
パスポートを見せればフリーパスだが、スイスに来た証しがほしいので、入国スタンプを押してくれ、と頼むと、
"No Stamp."
スイスはEU加盟国ではないが、ヨーロッパ域内ではスタンプを押さないのだという。

ジュネーブ駅近くのホテルにチェックインし、レマン湖の対岸の中心部へ出かける。
湖にかかる橋の上は、風が冷たく、思わず、マフラーを巻いた首を縮めた。
今夜は、名物料理のチーズフォンデュを食べたい。ジュネーブのガイドブックなどは持ってきていないので、適当に歩き回り、地元の人がそこそこ入っているフォンデュ料理店を見つける。スイスの通貨はスイス・フランだが、私はユーロしか持っていない。クレジットカードが使えるのを確認して、店に入る。

メニューを開くも、フランス語だけで、さっぱりわからない。スイスだから、せめてドイツ語の併記があれば、と思ったが、それもない。「フォンデュ」の名のつく料理がいくつか並んでいたので、いちばん安い、20数フラン(約2000円)のを注文。何が出てくるかと思っていたら、目の前には、大量のフランスパンと、アルコールランプで温められた鍋いっぱいのチーズが置かれた。

パンをチーズにひたし、ひたすら食べる。匂いたつほど、白ワインが利いている。酒に強くない私は、それだけで酔ってしまった。

・11/1 ジュネーブ〜パリ

朝、レマン湖の湖畔を散歩。風が強く、水面は海のように波立っている。フランスパンをちぎって投げるおじいさんに、白鳥やカモメが群がる。

昼前、駅前まで戻り、「スターバックス」に入り、チーズケーキとコーヒーで休憩。日本のスターバックスでチーズケーキを食べたことがないから比べられないが、「さすがチーズの本場」と納得してしまうくらい、美味。

昼過ぎのTGVで、パリに戻る。この列車は、リヨンの手前のAmberieu駅で、昨日のルートから外れ、リヨンを経由せずに、パリ方面への高速新線に入った。
指定された席は後ろ向きの席だったが、300キロで猛然とバックされると、さすがの私でも、初めて「車酔い」した。
ローカル線の気動車ボックスシートでは、酔ったためしがないのだが。

夕方、パリの「リヨン駅」に着き、タクシーでホテルに向かうと、部屋がなかった。黒人のフロント係は、片言の英語で状況を説明してくれた。
「オーバーブッキングというわけではなく…○○のため…」
肝腎の○○の意味がよくわからなかったが、結論は、
「市内中心部に別のホテルを用意した。タクシー代は払うので、そちらへ行ってくれ」

タクシー代として20ユーロ(約3400円)貰い、ストラスブール通りのホテルへ。立地は良くなったが、全部で15室程度しかない小さなホテルで、1階から2階まではエレベーターがない。
映画「カサブランカ」に出てきそうな、がたぴしする木の階段を上がっていく。ホテルのランクとしては下がった印象だが、フロント係は親切で、悪い感じはしない。

この日の夕食は、外国に来たら一度入ってみたくなる、「マクドナルド」。値段は、日本の2倍であった。

・11/2 パリ

朝一番で、ルーヴル美術館へ。夏にパリに行った友人から、ロシアの「エルミタージュ」より広い、と脅されていたので、メリハリを付けて見て回ったつもりだが、午後4時の時点で、「モナ・リザ」までたどり着けず。
この日は金曜日で、ルーヴルの夜間延長開館日なので、また戻ってくることにし、外へ出て、カルーゼル凱旋門からコンコルド広場へ。近くにある「オランジュリー美術館」に入ってみる。
モネやセザンヌなど、印象派の作品が目白押しで、素人目には、「量で勝負」のルーヴルより、見ごたえがある。ユトリロの絵もなかなかよい。ピカソは、相変わらず意味不明だ。

カルーゼル・ド・ルーヴルのフードコートで、パエリヤの夕食をとった後、19時前に再びルーヴルへ。
ところが、これが失敗だった。夜間割引料金狙いの某国人が大量に押し寄せ、鑑賞マナーも極めて悪い。
2日間有効の「パリ・ミュージアム・パス」を買っていたので、明日、再び来ることにし、早々にルーブルを出た。

歩いて、ミュージカル「オペラ座の怪人」の舞台・「オペラ・ガルニエ」へ。外から建物を見上げてきただけだが、たしかに怪人の出そうな、いかめしさであった。

・11/3 パリ2日目

この日も、朝一番で、オルセー美術館へ。チケット売場はすでに長蛇の列だったが、前記「パス」があるので、並ばずに入場。オルセーは、19世紀の鉄道駅舎を改装した建物で、メインホールに立つと、今にも、蒸気機関車が客車を牽いて滑り込んできそうな雰囲気である。宮殿風のルーヴルより、居心地がすこぶるよい。ルーヴルの悪口ばかり書いている気がするが。
19世紀以降の絵画のセレクションなので、ルーヴルより、わかりやすい絵が多い。ミレーの「落穂拾い」や、モネの「サン・ラザール駅」には見入った。

午後1時ころ、後ろ髪を引かれつつオルセーを後にし、地下鉄で1駅、ノートルダム大聖堂へ。京都で学生時代を過ごした身には、ことのほか親近感を覚えさせる名前である。
行列に並び、教会内部を見学。ステンドグラスの美しさもさることながら、祈りの雰囲気がよい。
高校時代を思い出し、
「父と、子と、聖霊との御名によって、アーメン」
とつぶやきながら、十字を切る。

さらに、1時間30分並んで、大聖堂の搭の上まで、らせん階段で登る。「せむし男」のガーゴイルと並んで、パリの街並みを見下ろす。隣で、カップルがキスを交わしている。パリは、愛と、孤独が似合う街である。

午後4時、フランス最高裁判所敷地内にある「サント・シャペル」へ急ぐ。「本日ここまで」という立て札が立っていたが、係員の姿がないのを幸いに、その札を後ろへずらし、平然と列に並ぶ。まもなく係員が戻ってきて、私の後から来た客を、断り始めた。大阪人に生まれてよかった。
サント・シャペルのステンドグラスは、万華鏡の中に飛び込んだかのようであった。

最高裁の建物には、「自由・平等・博愛」というフランス革命の理念が掲げられている。日本国憲法でいえば、13条・14条・25条あたりか。

午後5時すぎ、みたびルーヴルへ。この日は18時閉館なので、館内も空いてきていた。
とっておきの「モナ・リザ」は、防弾ガラスケースに入っているのが残念だ。「ダ・ヴィンチ・コード」のストーリーを思い出しながら、眺めた。

・11/4 パリ3日目(最終日) パリ→成田

第一日曜日のこの日は、パリの主な美術館の無料公開日。地下鉄(メトロ)をルーヴルの駅で降りてみると、入るのに3時間程度かかりそうな大行列ができている。無料につられて、この日に来なくてよかった。
ルーヴル宮のカルーゼル凱旋門から、コンコルド広場・シャンゼリゼ通り・凱旋門は、一直線上に建設されていて、カルーゼル凱旋門の中に、小さく凱旋門が見える。

シャンゼリゼ通りを、2キロほど離れた凱旋門まで歩く。歩いていると、案外、上り坂になっていることに気づく。京都でいえば、丸太町から今出川、北大路と上がっていく感じだ。

ルイ・ヴィトンカルティエの本店などを眺めて、12時ころ、近くのカフェで休憩。

この日は、夕方の飛行機でパリを発つ。15時に、荷物を取りにホテルに戻るつもりだが、まだ時間がある。何をしようかと考え、バスに乗ってみることにした。

これまで、パリ市内の移動は地下鉄を使ってきたが、パリの地下鉄電車は、鉄の車輪のほかに、ゴムタイヤまで付いた、奇妙奇天烈な台車を履いている。駆動にはゴムタイヤを使っているようで、駅発車時の加速が良すぎる。いずれにせよ、「鉄道」とは認めたくない代物である。

バス停で、路線図を眺める。洋の東西を問わず、見知らぬ土地でバスを乗りこなすのは難しいものだが、路線図は、見る人が見れば、わかるようにはなっている。せっかくなら、「モンマルトルの丘」方面に行きたいな、と思って探すと、18番だったか、お誂え向きの路線を発見。

日本ではほとんどない「連接バス」に乗って、パリ北部へ。かなり急な坂道を登ったり、下ったり、どこをどう走ったのか、よくわからないが、30分ほどで、モンマルトル地区のはずれの終点に着いた。
さて、ここはどこだ、と歩きかけると、近くの丘の上に、サクレ・クール寺院が見える。モンマルトルの丘の代名詞的存在だ。神戸を思い出す急な傾斜の路地を、適当に選んで登ってゆく。

サクレ・クール寺院前は、雑多な人でごった返していた。観光客、手品などを見せる大道芸人ストリートミュージシャン…。モンマルトルが、「パリの下町」といわれるのがよくわかる。
小高い丘から、パリ中心部を見晴るかす。

「さようなら、パリ」

パリは、もともと市内観光に興味はなく、鉄道に乗れさえすれば満足する私でさえ、観光せずにはいられない、魅力的な街であった。海外を旅するのは、当分お預けになるが、最後に、この街を選んでよかった。

そして、いつの日か、きっと…。

これまでの旅の思い出を走馬灯のように振り返りながら、私は、明日、関西を離れる。