正義の対立

「医療側からみて理解不能な刑事訴追の典型が大野病院事件だ。検察官は能力はあるが、使う方向が間違っている」

 業務上過失致死罪に問われた福島県立大野病院の産科医、加藤克彦被告(40)に対する判決を控えた7月28日。日本医学会が東京都内で開いた「診療関連死」に関するシンポジウムで、日本救急医学会の堤晴彦理事が捜査や公判への不信をまくし立てると、会場から大きな拍手が起こった。

 実際、そう考えている医師は多い。加藤医師の逮捕以来、捜査に抗議する声明などを出した医療系団体は約100を数える。

 日本産科婦人科学会の岡井崇理事は「今回のケースは癒着胎盤という珍しい症例で、最善の手術方法がまだ確立していない。これで刑事罰が問われるのであれば今後、難しい外科手術はできなくなる」と指摘。「過去に立件されたカルテ改竄(かいざん)や医療過誤とは質が異なる」と主張する。

 一方で検察側が捜査に万全の自信を持っていたことはいうまでもない。裁判では「手術の際の注意事項は基礎的文献に書かれている。産婦人科医師としての基本的注意義務に著しく違反する過失を起こした」と弁護側の主張に反論した。

 「過去に起きたカルテ改竄事件に象徴されるように、医療現場には仲間でかばい合ってミスを隠そうとする体質があったことを忘れてもらっては困る」「私たちは患者目線で捜査しているんだ」…。公然と捜査を批判する医療界に対して、敵意をむき出しにする検察官も少なくない。

 司法試験を通った検察官。遺族感情や社会常識を考え、法に照らして罪をあぶり出すのが仕事だ。対して医師試験という難関を突破し、臨床経験を積んだ医師は、自分たちこそが医療の現場を熟知しているという自負がある。

 「文科系と理科系のエリートたちの互いへの不信感が全面対決したという構図だな」。今回の事件を俯瞰(ふかん)して、ある裁判所の幹部が漏らした。
産経新聞Webより)

過去,「割り箸死亡事故」や「日航機ニアミス事故」の際,小欄で繰り返し指摘してきた「専門職に係る過失犯」問題のなかでも,最も鋭い対立を生んだのが,今回の「帝王切開死亡事故」だった。

きょう,福島地裁は,業務上過失致死と医師法違反の罪に問われた被告人に対し,「無罪」判決を言い渡した。

判決文を読んでいないので,医師法違反が無罪の理由はよく分からないが,最大の争点である業務上過失致死罪が無罪となったのは,率直に言って,よかったと思う。

そもそも,出産は,それ自体,一定の危険を伴う。医療の進歩により救命できる範囲が広がったことから,一般にはその危険性が認識されていないだけである。

本件の事例で,大量出血の発生は予見可能であったかも知れない(実際,裁判所は,そう認定した)。では,そうだとして,医師には,どのような注意義務(結果回避義務)が課せられるのであろうか。

被告人の「過失」を判断するにあたり,現実に発生した結果から回顧的(レトロスペクティブ)に「行為者は,行為時点において,こういう行動をすべきであった」と言ったところで,説得力は全くない。それは,結果責任を負わせるに等しいからである。そうではなく,「そのような行為に出るとき,行為者は,こういう注意を尽くすべきだ」というように,事前的(プロスペクティブ)に判断するのでなければ,「過失」の有無について,妥当な結論は得られない。

刑事裁判で「過失」の有無が争われ,これら二者が混同されると,結局,同種事故の再発防止にはつながらない。本件に即して言えば,「医師に過失(落ち度)はなかったが,このようなケースでは,これこれのような処置が望ましい」という共通認識が形成される契機がなくなるからだ(被告人としては,自己の過失を否定するため,「行なった処置は正しかった」と主張せざるを得ないため)。

それは,はたして「正義」であろうか。

刑事司法は,正義実現の場である。しかし,正義実現の場は,刑事司法だけではない。