山之内秀一郎さんを偲んで

実務修習地の秋田から埼玉県和光市司法研修所に異動して,2週間が経った。国鉄時代の官署名でいうと,秋田鉄道管理局(現JR東日本秋田支社)から東京北鉄道管理局(同大宮支社)に異動したことになる。

その間,日記を書くのをさぼっていたが,これは,来る日も来る日も,研修所敷地内の寮と教室とを往復し,講義か即日起案か,の連続であって,特記すべきことがなかったからである。

さて,東京北鉄道管理局で思い出したわけではないが,私が尊敬する人の一人に,元JR東日本会長の山之内秀一郎さんという方がおられた。国鉄・JR関係者で尊敬する人を問われれば,JR東海会長の葛西敬之さんと並んで,山之内さんのお名前を挙げてきた。

その山之内さんが,今年8月8日,75歳で亡くなられ,今月6日,お別れの会が催された。以下,『交通新聞』の記事を引用する。

 国鉄常務理事、JR東日本会長、独立行政法人宇宙航空研究開発機構JAXA)理事長などを務め、去る8月8日に逝去した故山之内秀一郎氏(享年75歳)のお別れの会が6日、東京都内のホテルでしめやかに執り行われた。JR東日本JAXAの主催。喪主は妻の美佐子さん。
 山之内氏は、1956年(昭和31年)4月国鉄入社。運転局計画課長、東京北鉄道管理局長、運転局長、常務理事を経て、87年4月にJR東日本代表取締役副社長・鉄道事業本部長に就任。副会長、会長、相談役を歴任し、2000年(平成12年)7月宇宙開発事業団(NASDA)理事長、2003年10月JAXA理事長、2005年1月からJR東日本顧問を務めた。
 お別れの会には、JR東日本の役員をはじめ、JRグループ各社、国会議員、各種団体などから約1500人が参列。遺影が飾られた祭壇を前に参列者1人1人が献花して、故人のめい福を祈った。
 会場の別室には、「ヤマシュウさん」と親しまれた山之内氏の国鉄JR東日本JAXAでの功績や山歩き、ドライブなどの趣味、「生まれ変わったら同じ仕事をするかと言われたら『もう嫌』だが、今のかみさんとはまた出会いたい」と答えた新聞社のインタビュー記事などがパネルで紹介され、参列者が故人の遺徳をしのんだ。

 ◇清野智JR東日本社長

 常に夢を追い続けた故人が、誰も追いつくことのできない永遠の旅路についたことは、残念でなりません。
 故人は、強い信念で国鉄改革を推し進め、JR東日本発足後は副社長、会長として、鉄道の安全確立など、技術面のみならず多方面で経営の基礎を築かれました。
 芸術や歴史などにも造詣の深い方でした。また、厳しさの中にもユーモアを交える温かい人柄は、多くの人から慕われていました。

山之内さんは,なかなかの健筆家で,一般向けの本も多く書かれている。私自身,運転保安関係の知識を得たり,鉄道事故の原因解明と刑事手続き(捜査)との関係を考えたりする上で,『新幹線がなかったら』,『なぜ起こる鉄道事故』など,山之内さんの著書に示唆を得たところは大きい。

理系出身の山之内さんは,具体的で,データの裏付けがはっきりした,分かりやすい文章を書かれる。国鉄で,「文章を書かせたら右に出る者はない」と言われた,法学部卒の葛西さんの書かれる緻密で論理的な文章とは,一味違う。

先日,高校時代の友人と会った時,ある鉄道会社に勤める友人が,来年には「助役」になり,40歳,50歳代の社員を「部下」として指導しなければならないと嘆いていた。

その大変さは想像できるが,山之内さんの頃の国鉄のキャリア人事は,もっと露骨だった。山之内さんも,弱冠27歳で,向日町運転区(現在のJR西日本京都総合運転所)の区長を務められている。

山之内さんの向日町運転区長時代のエピソードは,『新幹線がなかったら』の「第三章 特急時代の幕開け」で豊富に触れられているので,前記友人には,ぜひ読むことを勧めたい。

労働組合からの吊るし上げに対しても,原則論だけでなく,技術者としての意地と良心をもって対応するのが,山之内さんだった。

山之内さんの活躍は,国鉄・JRにとどまらない。平成13年,わが国が国産ロケット「H2A」の打ち上げに成功した時,打ち上げの総責任者を務めたのが,山之内さんであった。

JRグループの技術陣に,山之内さんに続く優秀な人材が育ちますように―。山之内さんのご冥福をお祈りします。