朝日社説に反論する

朝日新聞は、今日付けの「社説」で、「開廷60年 東京裁判を知ってますか」と題し、つぎのように論じた。

(前略)はっきりしているのは、政治の場で裁判の正当性を問い、決着を蒸し返すことの現実感のなさである。

あの裁判は、戦後日本にとって二つの意味で線を引く政治決着だった。

国際的には、51年のサンフランシスコ平和条約で日本は東京裁判を受諾し、国際社会に復帰を果たした。平和条約は締約国の対日賠償を基本的に放棄することもうたい、それとセットで日本は連合国側の戦後処理を受け入れたのだ。

国内的には、A級戦犯に戦争責任を負わせることで、他の人を免責した。その中には、昭和天皇も含まれていた。(以下略)

いかにも「朝日」らしい筆の運びである。朝食をとりながらこの「社説」を読んだ私は、その詐術的な論理に憤りを覚えた。

まず、わが国は、本当に極東国際軍事裁判東京裁判)を受け入れたのか。日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)11条は、つぎのように規定している。

日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。
(以下略)

朝日が「日本は東京裁判を受諾」というのは、本条に「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」とあるのを根拠にしていると思われる。確かに、一般人の感覚で条文を読むと、そうとれなくもない。しかし、わが国の法令用語で「裁判」という語を用いたときは、日常用語としての「裁判そのもの」ではなく、判決・決定・命令の総称としての、「裁判所の公権的判断」を指す。

まだ、わかりにくいかもしれない。サンフランシスコ平和条約は、日本語のほか、英語・フランス語・スペイン語によるものがひとしく「正文」であるが、本条の英文は、こうなっている。

Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan.

お気づきのように、日本語の「裁判」に相当する語は"judgments"である。ここからは、「裁判」が「東京裁判そのもの」を指していると理解することは、不可能である。なぜなら、裁判そのもの、という意味であれば、"trial"という語が使われるはずだし、また、仮に"judgment"を使うとしても、複数形(judgments)で書かれた説明がつかない。

私は、フランス語・スペイン語は解さないので、ここではあえて紹介しないが、フランス語・スペイン語の条文においても、英語におけるのと同様の使い分けがなされているようである。

つまり、本条は、「東京裁判の『判決』を受諾し、刑を執行する」という意味で読むのが正しい。

では、本条の意義はどこにあるのだろうか。

世界史で学ばれたであろう、欧州の「三十年戦争」を終結させた「ウェストファリア条約」(1648年)に典型的に見られるように、講和条約には、戦時法規違反者の責任を免除する規定が置かれるのが通例であった(「大赦」の意で、「アムネスティ条項」という)。お互い、「水に流す」ことが、平和の回復に資すると考えられたのだ。

その後、西洋諸国(すなわち、およそ近代国家)間においては、講和条約アムネスティ条項は「不可分一体」のものとなり、それが「国際慣習法」として確立したといえるかはともかく、少なくとも、「講和条約の締結=アムネスティ」という認識は、共通のものとなっていた。

ここに、本条の存在意義がある。昭和27年に「主権」を回復した日本国は、本来ならば、日本国の判断として、当時拘禁されていた「戦争犯罪人」を釈放できるはずである。だが、本条は、日本国がそうすることを許さない、すなわち、アムネスティ条項の「例外規定」なのだ。

本条に対しては、連合国の内部からも異論が続出した。例えば、メキシコ合衆国代表のラファエル・コリナ特命全権大使は、「われわれは、できることなら、本条項が連合国の戦争犯罪裁判の結果を正当化しつづけることを避けたかった。あの裁判の結果は、法の諸原則と必ずしも調和せず、特に法なければ罪なく、法なければ罰なしという近代文明の最も重要な原則、世界の全文明諸国の刑法典に採用されている原則と調和しないと、われわれは信じる」と述べ、また、アルゼンチン代表のイポリト・ヘスス・パス特命全権大使も、「この文書の条文は、大体において受諾し得るものではありますが、2、3の点に関し、わが代表団がいかなる解釈をもって調印するかという点、及びこの事が議事録に記載される事を要求する旨を明確に述べたいものであります。本条約第11条に述べられた法廷・東京裁判に関しては、わが国の憲法は、何人といえども正当な法律上の手続きを踏まずに処罰されない事を規定しています。正当な法手続きを踏まずに日本人指導者を処罰した東京裁判は、アルゼンチン憲法の精神に反している」と、東京裁判を明確に批判しているところである。

このように、東京裁判をめぐっては、国際法上、議論すべき点が、あまりにも多い。「勝者による一方的な裁き」であり、「事後法」を適用し、「罪刑法定主義」(「法律なければ犯罪なし、法律なければ刑罰なし」という、高校の「公民」でも習うはずの、刑事裁判の大原則)にも違反した東京裁判が、正当なものであったと考える国際法学者は、おそらく皆無であろう。

いずれにせよ、そうした実体論に踏み込むまでもなく、条約の解釈からも、「東京裁判を受諾した」などという朝日の主張が「まやかし」以外の何物でもないことは、十分におわかりいただけたと思う。

最後に、上で引用した朝日社説の最後の部分にも反論しておく。昨年10月25日付で、内閣は、民主党野田佳彦衆議院議員からの質問に対し、次の通り「答弁書」を提出している(関係部分抜粋。全文はこちら)。

平和条約第十一条による刑の執行及び赦免等に関する法律(昭和二十七年法律第百三号)に基づき、平和条約第十一条による極東国際軍事裁判所及びその他の連合国戦争犯罪法廷が刑を科した者について、その刑の執行が巣鴨刑務所において行われるとともに、当該刑を科せられた者に対する赦免、刑の軽減及び仮出所が行われていた事実はあるが、その刑は、我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない。

いかがであろうか。これをどう曲解すれば、「国内的には、A級戦犯に戦争責任を負わせることで、他の人を免責した」という朝日理論につながるのか、およそ理解不能である。

ところで、ロースクール修了生が受験する、いわゆる「新司法試験」においては、「六法」(憲法・刑法・刑事訴訟法民法・商法・民事訴訟法)に加え、「選択科目」が導入される。そのなかに、「国際関係法(公法系)」という形で、「国際法」が採用されたのは嬉しい限りだが、初年度となる今年、「国際関係法(公法系)」を選択したのは全国でわずか48人、受験者全体の2.6%にすぎず、選択科目中「最少」である。

だが、誤解を恐れずあえて言えば、「天下国家」を論じる人材にこそ、国際法の理解は欠かせない。一人でも多くの日本人に、「国際法」を学び、そのダイナミズムを味わってほしい。

もちろん私は、来年、「国際法」で司法試験を受けるつもりである。