現場に赴きて

stationmaster2006-05-03


東海道本線の下り始発で尼崎を発ち、久しぶりに姫新線に乗り、10時18分、因美線美作加茂駅に降り立った。

この前、「鉄分補給」の話で書いたように(http://d.hatena.ne.jp/stationmaster/20060426/1146065644)、ふらりと鳥取へ行くことにしたが、同じルートを往復するのではつまらない。そこで、往路は因美線、復路は山陰本線を経由することにした。

せっかくの因美線、乗り通すだけではもったいない。美作加茂で降りたのは、これも先日、「その狂気、やむことなし!」で書いた(http://d.hatena.ne.jp/stationmaster/20060410/1144680030)、「津山三十人殺し」の現場に行ってみようと思うからである。

津山三十人殺しとは、昭和13年5月21日、岡山県西加茂村のとある集落で、一夜のうちに、30人もの住民が、同じ集落に住む都井睦雄(当時21歳)により、猟銃・日本刀で殺害された事件である。凶行を終えた都井は、集落の裏山で自殺する。岡山地裁検事局(注、戦前の検察は、官署としての裁判所に属していた)の事件処理としては、「犯人死亡により公訴権消滅」が結論だが、事案の重大性から、事件発生当日に検事が現場に駆け付け、捜査を指揮している。

中3の時に、偶然この事件を知った私は、犯人の驚異的な冷徹さに興味をもち、自分なりに調べてきた(その経緯は、前掲参照)。当然、現場にも行きたかったが、当時得た資料では、加茂町のどこで事件があったのか、わからなかった。というのも、地元の人は、この事件に触れられるのを極度に嫌がり、『加茂町史』にも、日中戦争が泥沼化してゆく中で「都井睦雄事件」が起こった、という程度の記述しかないのだ。

高2の秋、美作加茂駅に、消滅間近の「タブレット」と「腕木式信号機」の取材に来たことがあるが、駅の周辺を歩いて、あの事件の現場はどこなのだろう、と思いながらも、現地の人に「聞き込み」をすることは憚られた。

その長年の疑問が、ついに解けた。加茂町中心部から直線距離で約2.8キロ、「貝尾」という集落だとわかった。調べたところ、今も貝尾集落はあるようだ。これは、行くしかない。

天気は快晴、新緑の草いきれがムンムンするような陽気のなか、私は、深呼吸して、駅から歩き始めた。一応、ネットの地図を予め見てきたので、駅前の地図を見ずに出発したが、この判断が、後々悲劇を招くことになる。

因美線の線路を渡り、郵便局などがある加茂町中心部へ。このあたりまでは、前にも来たことがある。ここから、県道68号線で西に向かう。道は、すぐにわかった。

中心部を抜け、田園地帯を20分ほど歩いただろうか。私は足が速いので、もう2キロ以上来たはずだ。そんなことを考えながら、何気なく足元に目をやって、おや、と首を傾げた。

ちょうど進行方向に、自分の影ができている。現在、時刻は午前11時過ぎ。この時間、太陽は南南東にあるはずだから、私は、「北北西」に向かっていることになる。地図で見た限り、道は曲がりくねっていて、一時的に北を向くところもあったように思うが、ずっと北向きとは、妙だ。だが、ここまでは一本道で、迷うはずがない。そう言い聞かせ、そのまま歩いた。

左手に、一軒の商店ふうの建物が見えてきた。その看板を見た瞬間、息が止まった。「美作宇野簡易郵便局」。

郵便局を見つけたのだから、普段の私なら、小躍りするシチュエーションである(祝日で閉まっているのはともかく)。だが、私は、心の中で「畜生!」と叫んでいた。

貝尾集落までの道のりに、郵便局があるはずはないのだ。それくらい、当然調べあげてある。いま、目の前にあるのが幻でないとすれば、可能性は一つしかない。道を間違えたのだ。

私は、急いで携帯を取り出し、地図情報サイトにアクセスした。地方では「圏外」も多いボーダフォン3Gだが、なんとかつながる。地獄に仏。だが、悠長にしてはいられない。乗車予定の列車まで、もう1時間もない。地図が表示されるまでの数秒の長いこと!

地図を見た私は、唸った。問題の貝尾集落へは、加茂の中心部から、すぐに左折しなければならなかったのだ。なんと、距離にして3キロも、あらぬ方向へ進軍していた。

私は、即座に転戦を決断し、直ちに引き返すとともに、事態対処方針を考えた。現在、時刻は1115。地図によれば、ショートカットルートがあるようなので、丸々引き返す必要はなさそうだが、予定通りのルートにたどりつくのは、早くて1130過ぎと思われる。だが、そこから貝尾集落までは、さらに2キロはあり、美作加茂駅に1205までに戻るのは、もはや不可能である。

せっかく、大阪から出かけてきたのだ。ここまで来て、事件の現場を見ずに帰るなど、切腹ものである。

手は、ないではない。実は、因美線内では、ここから2駅先の美作河井駅でも、途中下車する計画を立てていた。美作河井駅は、絵に描いたような「山間の小駅」というイメージ通りの駅で、急行「砂丘」廃止前夜の中3の秋、洛星ならではの「期末休暇」(秋休み)を利用して、丸一日「張り込んだ」ことのある、思い出の駅なのだ。

その美作河井駅を素通りしてよければ、加茂には1420までいられる。残念だが、そうするより仕方がない。

気を取り直して、貝尾に向かう正しい道を歩きだす。さっきの道より細く、曲がりくねっていて、雰囲気も高まってくる。電柱には、「行重線」と書いてある。間違いない。行重は、貝尾の隣の集落である。

車が1台通れるくらいの、だらだらした上り勾配の道を、ひたすら歩く。トラクターで「田起こし」をしていた農家のおっさんが、作業の手を止めて、じっとこちらを見ている。エトランゼの私は、68年前の犯人・都井以上に「不審者」に違いない。こちらから、「こんにちは」と、挨拶する。おっさんは頷いて、作業を再開した。

分岐点から、30分ほど歩いただろうか。突如、「←貝尾」という道路標識が現れた。その二文字は、ある種の「妖気」をもって迫ってきた。私は思わず、辺りを見回した。

両側の山が迫り、上り坂がきつくなってきた。町に出かける度に、都井はこの道を往復していたのか、と思う。息を荒くしながら、ひたすら登り続けると、森に抱かれた集落が姿を見せた。「貝尾」という地名標識に、典型的な戦前スタイルの農家が続く。白壁の土蔵を伴った、立派な家が多い。母家は、往時は茅ぶきだったと察せられるが、ほとんどがトタンに張り替えられている。

ぎらぎらと不気味に光るトタン屋根を除けば、この集落の光景は、68年前のあの日と、ほとんど変わっていないに違いない。具体的に、どの家で何人殺されたのか、全てを把握してはいないが、「殺すぞ、殺すぞ!」と叫びながら、鉢巻に懐中電灯を突き刺して、闇の中から走ってくる都井の姿が、目に浮かぶ。

石垣の上の高台に、少し離れて1軒の家が建っている。たしか、この家は、「間違いなく」襲われている。惨劇の舞台が、今も平然と残っているのだ。貝尾集落の、実に半分以上の家が襲われたのだから、当たり前といえば当たり前だが、目の前の現実とのギャップに、目眩を覚え、脇の下にじっとりと汗をかく。

田舎に行くとよくあるように、貝尾集落では、民家のすぐ近くに墓地が点在している。道路からもよく見えるその墓標を、読むでもなく目で追っていた私は、思わず戦慄した。

「昭和十三年五月二十一日没 行年―」

昭和13年5月21日―。あの惨劇の夜!