第一章 航空券のこと

 機内で、早めの昼食をとり、音楽を聴いてくつろぐうちに、ジェット機は高度を下げ始めた。もう、台湾領空に入っていて、ごみごみした住宅密集地と、青々とした水田とが、モザイク様に広がっている。5年前、初めて台湾を訪れた時、「日本に似ているな」というのが第一印象だったが、それを思い出す。
 いったん、台北をかすめるように飛び、11時40分(日本時間12時40分。以下、特記なき限り現地時間で表記)すぎ、郊外にある台湾桃園国際空港に着陸。往路の台北では、空港での乗り継ぎだけで済ませたかったのだが、先述のように、アフリカ内の航空券を発券するため、台北市内のJAA日本アジア航空)の支店に出向く必要がある。簡単な航空券なら、空港でも発券できるのだが、予約担当者に、「ご面倒ですが、空港窓口ではなく、市内カウンターまでお越しください」と、念を押されていた。
 飛行機は空いていたが、入国審査場はそれなりに行列ができていた。脇にある台湾銀行の窓口で、先に両替を済ませておく。5000円札を出すと、係員は、パソコンを操作しながら、日本語で、「ゴセンエン。1296元ね」と、言う。台湾の通貨は、「新台湾ドル(NTD)」だが、一般的には、単位は「元」が使われる。中国本土と同じだが、レートは異なる。5年前は、1元=3円くらいだったのだが、同4円近くになっている。
 つぎに乗る飛行機は、19時40分発の香港ゆきCX451便で、台北市内まで、バスで1時間かかることを考えても、時間はたっぷりある。チェックインは、関西空港で、ヨハネスブルグまで済ませておいたので、重い荷物を受け取る必要もなく、身一つで、台湾(中華民国)に入国した。
 桃園国際空港は、昨年、新しい第二ターミナルが開業し、JAAは、そちらに移った。前回と勝手が違うので、バスの乗り場を探して、きょろきょろする。「市区巴士 Express Bus」という表示に従って、ターミナルの裏側に回ったところに、バス会社のきっぷ売場があった。
 台北市内までのバスは、数社が運営しているが、旅行者にわかりやすい台北駅ゆきは、最大手の「国光客運」が運行している。その他のバス会社は、市内のホテルや地下鉄の駅を回ってゆくもので、方向が合えば便利だが、路線がわかりにくい。
 鉄道の「駅」は、中国語で、「車站」(チョーチャン)という。私は、
「タイペイ・チョーチャン」
と、言った。だが、おばさんの窓口係員は、首を傾げている。私は、中国語を学んだことがないので、発音は、まったくのカタカナ棒読みである。仕方なく、英語で、
「タイペイ・ステーション」
と、言い直す。おばさんは、頷いて、発券操作を始めたが、ふと、往復で買えば安くなるのではないかと思い、
「往復乗車券はありますか」
と、英語で尋ねてみる。おばさんは、再度頷いた。
 台北駅まで、片道125元(500円)だが、往復で230元(920円)であった。
 冷房の効いたターミナルビルから一歩外に出ると、ムッとする空気が、体にまとわりつく。私は、Tシャツの上にジャケットなど着ているから、思わず、顔をしかめるほど暑い。ジャケットを脱いで、バスを待つ。
 程なくやってきたアメリカ製のバスに乗り込むと、今度は冷房が効きすぎている。私は、ジャケットを羽織った。
バスは、数人の客を乗せただけで、ターミナルを離れた。これでは赤字ではないか、と心配しかけたが、第一ターミナルを経由し、ここで、満席になる。積み残された客が、係員に、バスを指差し、俺も乗せろ、というように何やらわめくが、係員は、その客を押し戻している。
結局、バスは、その客を乗せずに、発車した。空港周辺の道路脇には、角度を異にした高射砲が、ずらりと並んでいる。戦時下にあるわけではないが、中国大陸と緊張関係にある、台湾ならではの光景である。
 まもなく、真新しい鉄道の高架橋が見えてきた。台湾高鉄(台湾新幹線)の線路に違いない。実は、新幹線にも、桃園駅があり、台北まで、わずか20分で結んでいる。空港から桃園駅までの連絡バスも出ているので、利用しようかと思ったが、やはり、台湾新幹線には、起点から終点まで、きちんと乗りたい。桃園から台北までの20分だけ乗るなど、前戯なしで大事なことをするようで、よくない。
 せめて、新幹線の走っている光景くらい見られはしないかと、目を凝らしたが、残念ながら、姿は見えなかった。
 台北までは、高速道路が通じている。昨夜はよく寝られなかったので、眠くなってきた。私は、目を閉じた。
 気がつくと、バスは、台北の市内を走っていた。まどろみながら、台北駅までは、もうしばらくかかるかな、と思っていたら、見覚えのある、堂々たる台北駅舎が見えてきた。
 さて、私としては、まず、JAA台北支店に向かわなければならないのだが、目の前に鉄道の駅があると、入らずにはいられないのが、鉄道ファンたる者の性である。入口近くに、真新しい、台湾高鉄の窓口が目に入る。日本のJRとは違い、台湾では、在来線は国営(台湾鉄路局)のままだが、新幹線は、「台湾高速鉄路」(通称・台湾高鉄。英語表記は、Taiwan High Speed Rail)という民間会社が運営しており、きっぷ売場も別々である。
 窓口には、かなりの行列ができている。もっとも、スーパーのレジカウンターのような方式ではなく、一列に並び、空いた窓口に順次進む方式なので、混乱はなく、整然と進んでいる。そもそも「並ぶ」という概念を知らない大陸中国では、こうはゆかないに違いない。
 私は、アフリカからの帰路、6月23日に、高雄・左営駅から台北駅まで、新幹線に乗ることにしている。できれば、予めきっぷを買っておきたいのだが、台湾高鉄の指定券は、2週間前からの発売となっている。少なくとも、事前情報ではそうだった。ひょっとしたら、変更されているかも、と思い、私は、窓口に掲示されている「旅客営業規則」に、目を通した。これがロシア語なら、ロシア語を解さなければおよそ理解不能だろうが、「漢文」なので、眺めていれば、意味が見えてくる。「車票」「14日前」といった文字が見える。やはり、2週間前発売開始で、間違いなさそうだ。きょうは、6月5日なので、発売開始前である。
 ともかく、台湾新幹線が現実に運行されているらしいことに、ひとまず安堵した私は、駅のタクシー乗り場から、タクシーに乗り込んだ。JAA台北支店の入っているビルは、「敦化北路」と「八徳路」の交差点にある。私は、京都風に、「敦化北路・八徳路」とメモに書き、「(日亜航空公司)」と書き添えて、運転手に見せた。
 ところが、台湾では、「河原町今出川」のような表現はしないのか、おばさんの運転手は、首をひねっている。だが、皆目見当つかぬ、というわけではなさそうで、首を傾げながらも、車をスタートさせた。おばさんは、携帯で、どこかへ電話をかけ始めた。中国語なので、まったくわからないが、おそらく、営業所に、「JAAの支店はどこにあるのか」と尋ねているのだろう。
 私は今回、アフリカのガイドブックは持参しているが、台湾の地図等は持ってきていない。だが、事前に調べておいた範囲では、どうやら正しい方向に向かっているようなので、安心する。
 タクシーは、10分余りで、目的の交差点に着いた。運賃は、105元(420円)であった。どのビルかな、と思うと、IBMビルの正面の看板に、「JAA」の文字が見える。発券カウンターは、ここの2階である。
 窓口に、先客はいなかった。3人いる係員は、全員、台湾人の女性だった。私は、「ニイハオ」と挨拶して、真ん中のカウンターに座った。JAAの直営窓口だから、日本語も通じるはずであったが、私は、英語で、
「予約している便の発券をお願いします」
と、言った。予約記録は、予約番号(PNR)をコンピュータに打ち込めば、たちまち表示される。
 心なしか、係員の顔が険しくなった。無理もない。他社であるBAの、台湾から遠く離れた、ヨハネスブルグ→ハラレ間の便など表示されては、誰しも身構えるだろう。係員は、隣の窓口にいた、先輩格のスタッフを呼ぶと、
「すみません、担当を変わります」
と、日本語で言った。
 私は、より経験豊富と見える係員に、
ワンワールドが設定している特別運賃が利用できると思うのですが」
と、言った。予約記録に、運賃の情報も入っているのか、これはすんなり通じた。だが、「ワンワールド・ビジット・アフリカ・パス」を発券するのは、JAA台北支店では、私が初めての客のようであった。JALグループが、ワンワールドに加盟したのは、今年4月である。
 係員は、難しい顔で、後ろの棚から、各種航空券の発売タリフを取り出してきた。私は、JRの「みどりの窓口」で、マイナーな特別企画乗車券(トクトクきっぷ)の発券を頼んでいる気分になった。
 タリフには、「ワンワールド・ビジット・アフリカ・パス」運賃が、きちんと記載されていた。日本語・英語で書かれていて、係員は、英語と日本語を交互に、首っ引きで参照している。私は、この運賃について、ワンワールドのホームページで調べまくってきたから、よく知っているが、係員が理解するのを、じっと待った。別の係員が、熱いお茶を淹れてくれる。「謝謝」と言って、受け取る。
 ところで、一般に、このような特別運賃は、コードシェア便では利用できないことが多い。コードシェア便とは、他社が運航する便に自社の便名も付け、座席を販売する便のことで、「共同運送便」ともいう。私が予約しているアフリカ内のBA便は、BA本体の運航ではなく、Comairという会社が運航するコードシェア便である。
 それなのに利用できるのか、と思われるかもしれないが、このルールには例外があり、ホームページの案内には、「BAにはComair運航便を含む」と、明記してある。だが、このことは、JALの予約デスクのオペレーターも、知らなかった。私がそれを指摘すると、「お客様、詳しいですね」と、逆に感心される始末であった。
 目の前の係員も、タリフとコンピュータの画面を交互に見つめた後、私に向き直ると、
「この便は、BAではなく、Comairの運航で…」
と、切り出した。私は、またか、と苦笑しながら、上記の説明を繰り返した。一般向けのホームページに書いてあるくらいだから、タリフにも書いていないはずはないのだが。
 それでも、半信半疑の顔をしている係員に、私は、英語で、こう言った。
「アフリカ内のBA便は、すべてComairの運航です。もし、コードシェア便が利用できないのなら、この運賃が適用できるフライトは存在しないことになりますよ」
 この一言が効いたようで、係員は、発券操作に入った。この運賃は、コンピュータの自動運賃計算機能が使えず、航空券面上の「FARE BASIS」欄に、必要事項を手動で入力してゆく必要がある。
 ところが、タリフの指示どおりに入力しても、なぜか「エラー」表示が出る。
 私の旅程は、ヨハネスブルグ→ハラレ、ケープタウンヨハネスブルグの2区間だが、往路出発地と復路到着地が同じで、往路到着地と復路出発地が異なる、「オープンジョー」(OJ)という形態である。ところで、ノーマル運賃の場合において、OJの旅程のときは、往路到着地と復路出発地との間、すなわち、航空機を使わずに移動する区間の距離が、航空機を使う区間の距離より短くなければならない、というルールがある。例えば、東京→ロンドン、パリ→東京などはOJになるが、パリ→コペンハーゲンマドリード→パリなどは、OJにはならず、それぞれ片道のチケットになる。
 「ビジット・アフリカ」運賃は、アフリカ南部の4ヵ国・7都市間に設定された、ゾーン制運賃であり、任意の2区間以上の利用が条件となっている。「任意の」であるから、当然、単純往復であろうが、OJであろうが、片道2区間であろうが、利用できるはずである。
 ところが、コンピュータは、ノーマル運賃のルールを機械的に適用し、ハラレ−ケープタウン間の距離が、ヨハネスブルグ→ハラレ間の距離を超えるので、OJとしては発券できない、とはねつけているようであった。
これは、予想外の事態であり、私は、係員ともども、ウーンと唸った。この時点で、窓口にいた3人の係員は、全員、私の周りに集まっていた。加えて、どういう関係なのか知らないが、たまたま航空券を受け取りに来ていた現地の旅行会社のスタッフまで、カウンターの中に入り、鳩首会議を始めた。
係員は、手分けして、各方面に問い合わせることになった。1人は、東京のJAA本社、もう1人は、BAの台北支店、さらに、香港にあるJALの営業センターなどに電話をかけて、助けを求めた。
 遺憾なことに、BAは、自社商品である「ビジット・アフリカ」運賃について、正しく理解しておらず、「4区間以上利用が条件」などと、理解に苦しむ回答をしてきた。私は、部内(in-house)資料のタリフを見せてもらい、「2区間」とあるのを確かめると、もう一度、BAに問い合わせてくれるよう頼んだ。そして、こう、付け加えた。
「もし、OJの旅程に制限があるなら、当然、ホームページやタリフにも、その旨書いてあるはずです。しかし、『任意の』となっているうえに、この運賃は、ノーマル運賃とは違い、区間マイルによる運賃計算ではなく、ゾーン制運賃なのだから、ノーマル運賃のルールが当然には適用されるとは考えません」
と、タリフの「文言」に加え、運賃制度の「趣旨」にまで言及して、論じてみた。係員は、
“Your explanation is very reasonable.”(あなたの説明は、非常に合理的です)
と、大きく頷き、もう一度、受話器を取った。
 私は、いざとなれば、融通の効かないコンピュータ発券ではなく、カーボン紙を使った、手書きの航空券で発券を頼もうと思っていた。ちなみに、JRの場合も、コンピュータ「MARS」(マルス)で発券できるきっぷには限界があり、JR線の「最長片道きっぷ」などの複雑な乗車券は、手書きの「出札補充券」で発売される。
 JAA台北支店に着いたのは、14時頃だったと思うが、気がつくと、もう16時になろうとしている。係員と航空券の議論をするのは楽しいが、いい加減、時間が気になり始めた。夕方になると、道路も渋滞し始める。チェックイン済みとはいえ、出国審査などもあるので、出発1時間前の18時40分には、空港に着いていたい。
 BAからどういう回答があったのか定かではないが、先程までお手上げ状態だった係員は、電話を切り、コンピュータに向かうと、猛然と入力作業を始めた。別の係員は、南アの空港税などを調べ、それをメモにして渡したりしている。なにやらよくわからないが、止まっていた歯車が動き始めたようだ。あまりに突然の展開に、発券できそうなのか、尋ねたかったが、この係員、話しかけると、その間、手が止まるという癖がある。私は、黙って、2杯目のお茶を飲みながら、係員の作業を見守った。
 16時15分、実に2時間以上かかり、ついに、「ビジット・アフリカ・パス」運賃を適用した航空券が、発券された。JAAの窓口係員3人、たまたま居合わせた旅行会社スタッフ、そして私。5人の間には、一仕事成し遂げた連帯感のようなものが生まれていた。
「皆さんの努力に、深く感謝します」
と、私は言った。係員は、
「お待たせして申し訳ありません。それにしても、お客様がよくご存知なので、助かりました」
などと言う。私は以前、JRの「みどりの窓口」でも、駅員に、「お客さん、私の代わりに窓口に座ってください」と言われたことがあるが、それを思い出す。
 正直言って、アフリカ周遊券の発券に、これほど苦労するとは思ってもみなかったが、係員が、普段の1年分に相当する作業を2時間でやってくれたのは、確かなようであった。私は、もう一度礼を言って、ホヤホヤの航空券を胸に、タクシーで、台北駅に戻った。

(「第ニ章 ブラック・アフリカの真ん中へ」につづく)