「過ちはくりかえしませんから」

「原爆投下はしょうがない」という、開いた口が塞がらぬ発言から、3日。

久間防衛大臣が、ようやく辞任した。私は、以前から久間大臣の資質を疑問視し、小欄でも、今年1月8日・2月20日の2回、防衛大臣の交代を求めてきたから、喜ばしい。

それにしても、久間氏の発言は、一貫しないところがある。「イラク戦争は間違いだった」と言い、その当否はともかく、個人的見解として理解できなくはないが、「当時の日本政府が合衆国を支持したわけではない」と続けたのには、驚き呆れた。

防衛大臣という要職にあるにもかかわらず、同盟関係を顧みない発言に、ひょっとして根っからの「反米」主義者なのではあるまいかと思っていたら、合衆国の一方的主張を代弁するかのような、今回の発言である。

広島の平和記念碑は、「安らかにお眠りください。過ちはくりかえしませんから」という、意味不明な一文で終わっている。「過ち」を犯したのは合衆国であり、なぜ、わが国が謝らなければならないのか、理解に苦しむが、もしかすると、久間大臣は、広島の記念碑と同じ発想なのかもしれない。

いうまでもないことだが、国と国との戦争において、殺傷することが許されるのは、「戦闘員」どうしに限られる。文民の保護は、戦時国際法(国際人道法)の大原則であり、一般市民の殺害は、「殺人罪」に問われる。

大東亜戦争時、合衆国が、わが国の都市を無差別に爆撃し、さらには、「実験」として原子爆弾を投下した行為は、大量虐殺というべきものであり、明白な戦時国際法違反である。わが国の指導者が、事後法たる「平和に対する罪」に問われるなら、合衆国こそ軍事法廷で裁かれるべきなのだが、ご存知の通り、東京裁判は、連合国側の狂気と復讐とが支配し、法と正義は貫徹されなかった。

ところで、現在の国際社会において、バランス・オブ・パワーの発想に基づく「核抑止力」理論が、依然、有効な安全保障政策であるのは、紛れもない事実である。その重要性は、唯一無二といってよい。日米安保とは、要するに、合衆国の「核の傘」に入れてもらう、ということなのである。

そうすると、一方では「核廃絶」を唱える日本政府の姿勢は、二枚舌に映るかもしれない。だが、国防は、倫理的な善悪の問題ではない。国際場裏を支配しているのは、米英仏露中の5ヵ国だけに核保有を認めた「NPT体制」なのである。「理想」と「現実」とが一致しないのは、世の常である。

1996年、国際司法裁判所は、国連総会からの諮問に対する勧告的意見として、次のように判示している(ICJ Reports 1996, p.226)。
核兵器の使用を許す国際法は存在しない」(裁判官全員一致)
核兵器の使用は一般的には国際法の規則に反するが、国家の存亡にかかわる自衛の極限状況において、核兵器の使用が合法か違法かは、確定的に判断を下すことはできない」(7対7、裁判長のキャスティング・ボート)