第二章 ブラック・アフリカの真ん中へ

 経由地・香港では2時間余りの乗り継ぎ時間があったが、私は、不安を紛らわすのに必死だった。ゲートに表示された”Johannesburg”という文字の向こうに、「暗黒大陸」が、不気味に扉を開いていた。私は、回れ右をして、日本ゆきの飛行機に潜り込んでしまおうか、と本気で思った。
 だが、私はアフリカへ行かねばならぬ。何があっても、アフリカの鉄道に乗らねばならないのである。男は、強くなければならない。
 ヨハネスブルグゆきCX749便は、7割くらいの搭乗率だった。仕事、帰省など、所用のありそうな人ばかりで、観光客らしい人は少ない。大学の春休みシーズンのヨーロッパ線などで、若者グループと一緒になるとウンザリするが、そういう人たちがいないのは、それはそれで淋しい。
それにしても、中国人というのは、実にやかましい。会話する相手のいない一人旅の私は、余計にそう感じる。また彼らは、じっとしていることができないらしい。離陸する前から、座席の背を倒したり、テーブルを引き出したり、いろいろしては、客室乗務員に注意されている。機内の狭い空間で、傍若無人な中国人と一緒に過ごすのは、一種の修行といってよい。ヨハネスブルグまでの飛行時間は、13時間10分。はたして耐えられるだろうか、と思う。
香港を離陸したのは、日付が変わろうとする頃だった。きょうは、台北JAA支店で、目まぐるしいやり取りをして航空券を買っただけの一日だったが、疲れた。目を閉じたらそのまま眠れそうだったが、すぐに夕食が出るはずなので、音楽を聴いて過ごすことにした。ところが、イヤホンの接触が悪く、音がほとんど聞こえない。客室乗務員を呼んで、新しいものと交換してもらったが、やはり調子が悪い。コードの付け根を手で押さえるようにすると、ちゃんと聞こえるから、断線しているのだろう。中国人が、乱雑に扱うからに違いない。
 私は、音楽をあきらめ、機内誌を開いた。偶然にも、台湾新幹線の特集ページがあり、それは興味深かったが(もっとも、「漢文」なので、あまり理解できなかったが)、「日本の新幹線」として紹介されている写真に、見覚えがある。JR東海N700系の写真だが、「JRグループ20周年記念サイト」に掲載されていたものだ。私が携帯の待受画像に使っている写真なので、間違いない。ところが、どこにも、著作権マークが見当たらない。「写真提供 JRグループ」というような表示もない。いくら中国といえども(香港だが)、よもや航空会社が、JRグループの著作物を無断盗用することはない、と信じたいのだが…。
 機内食は、3つのメニューからのチョイスで、JALよりおいしいのが、唯一の救いだった。私は、機内でご飯をいただけるだけでありがたいと思っているので、不満があるわけではないが、JALのエコノミークラスの機内食は、近年、とみに質が落ちたように思う。それでも、私は、JALに乗り続けているのだが。
 さらに、JALの場合、歯ブラシは、トイレの何も書かれていない引き出しの中に、まるで隠すようにしまい込まれているが、CXでは、歯ブラシ・耳栓・機内用靴下のセットが、全員に配られる。私は、歯を磨いて、毛布をかぶると、目を閉じた。
 1、2時間おきに目を覚ましたが、機内にしてはよく眠れた。シートテレビのナビゲーションマップを見ると、もう、赤道を越え、マダガスカル上空にさしかかっている。お腹空いたなあ、と思いながらぼうっとしていると、客室乗務員が、飲み物とスナックを持ってきてくれる。なかなか気が利く。
香港時間では、もう午前11時前だが、南ア時間では、午前5時。私の席は通路側なので、シェードの下ろされた窓の外は見えない。当地は冬だから、まだ真っ暗だろう。
 時計を、南ア時間に合わせる。時計の正確性には秒単位でこだわる私は、海外へ行くとき、時計を2つ持ってゆく。アナログ時計の場合、時差のある度に針を止めていると、どんどん遅れてしまう。そこで、現地時間に合わせる腕時計のほか、日本時間のままの懐中時計を用意し、それを基準に合わせる。
 機内の明かりが点き、これまたJALよりおいしい朝食が済むと、機は、まもなく降下を開始した。夜明けにはまだ時間があり、ぽつ、ぽつ、と街の明かりが見える。夜景にも、それぞれの国の個性がある。オレンジ色の光が多いようだ。初めて見るアフリカだった。
現地時間の7時すぎ、雨に煙るヨハネスブルグ国際空港に着陸。当然、ボーディングブリッジのあるスポットに着くと思っていたら、降機の列がなかなか進まない。何を手間取っているのか、と思ったら、ターミナルまで、バス移動なのだった。周りの客は、厚手のセーターやコートを取り出して、羽織っている。私は、Tシャツの上にジャケットだけである。
寒い!飛行機から降りた瞬間、身震いする。紛れもない冬だ。タラップから、バスまで、少し距離がある。冷たい雨の中、ドアに走りこむ。
 ヨハネスブルグ国際空港は、2010年のサッカー・ワールドカップを前に、改築工事中で、使えるスポットが一時的に少なくなっているようだ。改装前の鉄筋コンクリートのビルは、古色蒼然としている。アパルトヘイトの痕跡が残っていそうな建物である。
 さて、ヨハネスブルグに到着したが、私は、真っすぐ、ジンバブエのハラレに飛ぶことにしている。「世界一危険な都市」「リアル『北斗の拳』の世界」…。香ばしい形容詞がいくつも並ぶヨハネスブルグの街は、ガイドブックに「市内中心部には決して立ち入らないこと」と書いてあり、地図すら載せていない。行くなと言われると、行ってみたい気もするが、今回の旅では、ヨハネスブルグは素通りすることにした。
 南アに用はないのだが、関西空港ではヨハネスブルグまでしかチェックインできず、荷物を受け取る必要があるので、いったん入国する。カートに荷物を載せて、到着ロビーに出ると、正体不明の黒人が、口々に叫びながら近寄ってくる。
「タクシー?」
「ドメスティック(国内線)?」
「チェンジ・マネー?」
東南アジア、ロシア、ペルー…。世界中で、こういう連中を相手してきたが、追い払うのに一番威力のあるのは、母国語たる大阪弁である。「そんなもん、いらん」「どけ、しばくぞ」と言いながら、素早く、”International Departure”(国際線出発)という案内表示を探す。
国際線出発ロビーは、2階だった。エスカレーターの前までカートで進み、荷物を下ろそうとしていると、オレンジ色のつなぎのような服を着たポーターが近づいてきて、
「カートのままでも大丈夫だ」
と、カートを載せてくれる。私が礼を言っても、ポーターは立ち去らず、一緒にエスカレーターに乗ってきた。
「どこへ行くんだい?航空会社は?」
と、聞いてくる。はっきり言って、ポーターとしては怪しいが、危なそうな雰囲気ではないし、無視するのもなんなので、
「BAで、ハラレまで」
と、素っ気なく答える。
「BAか。BAのカウンターは、こっちだ」
と、先に立って案内する。実際、BAのカウンターは、そこにあった。もう一度、礼を言って別れようとすると、
「ここまで案内したから、チップをくれ」
などと言う。私は、海外では、ズボンのポケットに1ドル札をたくさん入れている。チップ用でもあり、強盗に襲われたときの「目くらまし」でもある。このポーター、いよいよ怪しいが、荷物を運んでくれたことは確かなので、1ドル渡そうとすると、
「それでは少ない」
などと言う。こんな生意気なポーターは初めてだ。私は、コチンときて、
「じゃあ、1銭も払わん」
と言って、ずんずん、カウンターに向かった。空港の中なので、手荒なことはしないだろう、という読みもあった。ポーターは、しばらくこちらを見ていたが、口惜しそうに、去っていった。
 BAのカウンターには、女性の職員が1人いたが、まだ開いていなかった。モニターに、”Opens at 8:30”とある。あと、50分近くある。喫茶店に入って、紅茶を飲みながら、本を読んで待つ。ふと、ポーターの一件が気になって、ガイドブックを開くと、こう書いてあった。
ヨハネスブルグ国際空港の到着ロビーには、空港職員以外の人も多く入り込んでいる。勝手に案内をして、チップを要求してくる人もいるので注意(かなりしつこい)。」(前掲『地球の歩き方南アフリカ』)
 さっそく、アフリカの洗礼を受けたわけだ。
 時間になったので、BAのカウンターに戻ると、黒人の男性職員が、コンピュータを立ち上げて、準備をしている。「おはようございます」と挨拶して、昨日、台北で2時間がかりで発券してもらった航空券と、パスポートを提示する。
 ちなみに、ヨハネスブルグ→ハラレ間の片道ノーマル運賃は、2100ZAR(南ア・ランド。約3万5700円)だが、「ワンワールド・ビジット・アフリカ・パス」を使えば、120USドル(約1万4400円)。この特別運賃にこだわった理由が、おわかりいただけるだろう。
 BAの係員は、航空券を一瞥すると、私の名前をコンピュータに入力しようとした。だが、そこで、彼は固まってしまった。目が宙を泳ぎ、何やら必死に思い出そうとしている様子である。5秒くらいそうした後、私に向き直ると、こう言った。
「パスワード忘れた。ちょっと待って」
 係員は、どこかに電話をかけ始めた。私は、開いた口が塞がらなかった。
けれども、人間、誰しも「ど忘れ」ということはある。司法試験受験生にとって、典型論点なのに、参照すべき判例が思い出せないのは、よくあることだ。
 そう思いたかったが、2週間のアフリカ滞在で、この「善意」の理解は、修正されることになる。
 頼りない係員なので、私は、荷物にきちんとタグが取り付けられるのを見届けてから、カウンターを離れた。
 チェックインは済ませたが、ハラレゆきBA6267便の出発は12時30分で、時間はあり余るほどある。私は、展望デッキへ上がってみた。屋外には出られず(もっとも、外は雨だが)、建物の中なのだが、隙間風が吹き込んで寒い。ベンチにはゴミが散乱し、黒人が数人、何をするでもなくたむろしている。一瞬、入るのを躊躇してしまう空間だが、私は、比較的綺麗なベンチを見つけて、腰を下ろした。
ヨハネスブルグは、いうまでもなく、アフリカ最大の翼・南アフリカ航空(SA)の拠点空港である。SAは、ジャンボ・B747-400から、小型のエアバスA320、数十人乗りのプロペラ機まで、ひっきりなしに発着している。ヨーロッパからは、BAとLH(ルフトハンザ・ドイツ航空)が、それぞれB747-400で乗り入れている。
寒くなってきたので、出発ロビーに下りる。ここで、両替しておくことを思い出す。これからジンバブエに行くのに、なぜ、と思われるだろう。というのは、ジンバブエヴィクトリア・フォールズを訪れた後、長距離バスでナミビアに入ることにしているが、ルートの途中では、両替ができないらしい。ウィントフックまで、延々20時間かけて走るバスだから、途中で休憩があるはずで、水や食料を買いたい。ナミビアの通貨はナミビア・ドルだが、南ア・ランドと等価で、ランドも広く通用するという。ランドを手に入れておけば、なんとかなるだろう。私は、そう考えた。
先ほどのポーターと顔を合わせると厄介なところだが、いったん、到着ロビーに下り、銀行の窓口に向かう。50USドルを出すと、286.75ランドになって返ってくる。1ランドは17円くらいだから、レートは相当悪い。これは、南アの銀行の両替手数料が高いためで、レシートを見ると、55ランド(約935円)も手数料がかかっている。南アでは、空港に限らず、市内の銀行でも手数料が高いので、現金での買い物は必要最小限にとどめ、クレジットカードが使える店では、徹底してカードで払うことをお薦めする。
もう、すべきことはないので、出国してしまうことにする。手荷物検査場で、荷物の開披を求められる。銀塩の(デジタルではない)カメラを使っている私は、飛行機に乗るとき、フィルムを保護するため、X線を通さない、専用の袋を使っている。だが、これを使うと、X線透視検査機の画面上、真っ黒に映ってしまうので、ほぼ毎回、止められる。それはいいのだが、黒人の男性職員は、X線防御バッグを指差し、
「これは不正手段(fraud)だ」
などと言う。たしかに、検査機で中身を見えなくしていることは事実だが、その代わりに、より厳重な、係員による開披(オープン)検査を受けているのだから、批判される筋合いはまったくない。世界中飛び回ってきたが、「不正」呼ばわりされるのは初めてである。腹が立ったので、
「は?これの何がいけないのかね?」
と言い返すと、職員は、ふてくされたように黙ってしまった。仕事熱心なのか、やる気がないのか、よくわからない職員である。
 それにしても、ヨハネスブルグの空港は、寒い。どこにいても、冷たい風が吹き込んでくる。南アは冬なのだから、客の側もそれなりの服装をすべきであって、Tシャツにジャケットだけの私にも問題はあるが、日本の空港は、冬でももっと暖かい。薄手のセーターも持ってきているが、預け入れたボストンバッグの中である。
 私は、震えながら、持参した本のページをめくった。
 2時間ほど読書して、11時すぎ、搭乗ゲートの前へ移動することにした。次のゲートも、ボーディングブリッジで飛行機に直接乗り込むタイプのゲートではなく、バスで移動する方式である。前者のタイプのゲートなら、ゲートの前にも広い待合室があるので、そこで待てばよいが、後者の場合、ゲートは「バス乗り場」のようなもので、ベンチは少ないことが多い。ロシアでもペルーでもミャンマーでも、世界中どこでもそうである。だから、ターミナル中ほどのベンチで待っていたのだった。
 工事中のターミナルビルを端まで歩き、1フロア下のゲート(バス乗り場)に下りる。案の定、ベンチの数は少なく、込み合っている。一方で、政情不安のハラレに行く客が、他にもこれだけいるのは、頼もしくもある。
 そう思っていたら、隣のゲートで、ケニア・ナイロビゆきの搭乗(といっても、ここから乗るのはバスだが)が始まると、ほとんどの客が、そちらに並んでしまい、いっぱいだったベンチは、櫛の歯が欠けたようになった。
 搭乗前に、トイレに行っておくことにした。今回、アフリカで最後に訪れる予定の、冬のケープタウンは、雨が多いと聞き、私は、ビニール傘を携行してきた。ふつうの人なら、折り畳み傘を持ってゆくところだろうが、私は、折り畳み傘を畳む作業が嫌いで、荷物になっても、ふつうの傘を選ぶ。それはとにかく、この時もビニール傘を持って、トイレに入ったわけだが、掃除のおばさんが、それを見るなり、
「その傘、私にちょうだい」
などと言ってくる。居合わせたおばさんの同僚も、ニタニタ笑っている。
 考えてみてほしい。日本の空港で、清掃作業員が、客に対し、「その傘、私にくれ」などと要求しようものなら、たちまち解雇されるだろう。
差別意識ではないが、黒人に対する認識を根本的に改める必要がありそうである。
搭乗開始時刻は11時45分だったが、少し遅れて、ゲートが開いた。ハラレゆきの列には、ビジネスマンらしい黒人のほか、赤ちゃんを抱いた白人の家族連れなどもいる。英国の外務省が「個人での旅行は見合わせること」と発表しているジンバブエだが、平和な空気に、少し、ほっとする。実情は、着いてみなければわからないが。
 飛行機は、BA塗装のB737-300だった。航空券を買う段でも触れたように、この便は、BA本体ではなく、Comairという会社の運航なのだが、BAの「南ア子会社」のような位置づけなのだろう。客室乗務員の制服も、BAのものである。
 雨が降りやんだヨハネスブルグを離陸し、北東に針路をとる。ハラレまでの飛行時間は約1時間30分、大阪−札幌間くらいの距離だが、国際線なので、食事が出る。日本を発ってから、実に5回めの機内食だ。JAL機内食ばかり続くと、辟易するところだろうが、BAで出されたのは、チキンのクリームソース煮が載った北欧風のオープンサンドで、なかなかおいしい。
 窓の外には、赤茶けた大地が広がっている。もう、ジンバブエ領空だろうか。出発前、BBCニュースが、ジンバブエでは、今年、干ばつが深刻で、食糧事情はますます悪化するだろう、と報じていたのを思い出す。こういう国を見るにつけ、日本の緑の豊かさが、奇跡にも思えてくる。
 旅客機は、高度を下げ始めた。ハラレの街は見えず、どこまでも畑が広がっている。景色は街らしくならないまま、14時、ハラレ国際空港に着陸。まぶしいほどの快晴だ。客室乗務員が、「ハラレで素敵な滞在をお過ごしください」と言う。いつもなら聞き流す、決まりきった一言だが、思わず、”I hope so.”と、つぶやく。
 空港には、他に一機の飛行機もいない。日本でいえば、兵庫県コウノトリ但馬空港レベルで、私が見たなかで、いちばん小さな国際空港だ。”Welcome to Zimbabwe”と書かれたターミナルビルは新しく、一人前に、ボーディングブリッジも備えている。
 まず、入国審査を受けるが、窓口の自国民(ジンバブエ人)と外国人の区別の表記が、独特だ。日本なら、”Japan Passport”と”Foreign Passport”であり、世界的にもこれが多数かと思われるが、当地では、片や”Returning Residents Only”とあり、もう片方には”VISA purchasing”とある。「ビザ購入」と書かれた窓口に並ぶ。
 ビザ(査証)というのは、本来、入国審査をスムーズに行なうため、当該国の在外公館(領事機関)があらかじめ発給する「入国推薦状」なのだが、途上国のなかには、もっぱら外貨稼ぎの手段と化している例がある。ジンバブエのような「到着ビザ」方式など、その最たるものである。
 窓口にパスポートを提示すると、黒人の入国審査官は、驚いたように”Japan!”と言った。
たしかに、私のほかに、日本人は一人もいない。独裁を強めるジンバブエムガベ大統領に対し、欧米は経済制裁を課している。日本からの投資も減少するなか、「人権無視」大国どうし、急速に友好関係を深めているのが中国だという。
 30USドル払うと、パスポートにビザが貼り付けられ、流れ作業のように、隣の窓口で入国スタンプが押され、入国審査は完了である。
 すぐ目の前に、荷物を受け取るターンテーブルがあり、壁には、ムガベ大統領の写真が高々と掲げられている。たしかに、私はジンバブエに来たようだ。
 荷物を受け取り、ターミナルビルを出る。同じBA便で着いたほとんどの人たちは、迎えが来ていて、一しきり抱き合ったりしてから、車に乗り込んでいるが、私は、天涯孤独の身である。ハラレの市内まで、バスなどはない。タクシーはどこかな、と思うと、道の向こうに、それらしい車が何台か止まっていて、運転手が身を乗り出して、手を挙げている。日本では、客が手を挙げて、タクシーを止めるのだが。
 タクシーに乗り込み、まずすべきことは、運賃の交渉である。メーターは付いてはいるが、私は、ジンバブエ・ドルを持っていないので、USドルで支払う必要がある。空港で、ジンバブエ・ドルに両替しなかった理由については、章を改めて述べる。
「ホリディ・イン・ハラレまで、USドルで、いくら?」
と尋ねると、運転手は、”Twenty”(20ドル)と言う。空港から市内までは、約14キロ。ガイドブックには、「12USドル程度」とあるので、少し高いようだが、べらぼうにふっかけているわけではない。粘れば、15ドルくらいには下がりそうだったが、タクシーが難なく見つかった安堵感もあって、私は、「OK」と頷いた。
 中古の日本車のタクシーは、交通量のほとんどない道を飛ばす。空港から首都への道で、これほど空いているのは、初めてだ。ミャンマーヤンゴンでも、もう少し車は多かった。当地では、ガソリン不足が深刻だと聞いているが、その影響だろうか。
 運転手が「どこから来たんだい?」と言うので、「日本から」と答えると、
「じゃあ(Then)、仕事でかい?」
と、言う。「じゃあ」というのが気になるが、「いや、観光で」と言うと、運転手は、嬉しそうに頷いた。ビジネス以外で、自国に興味をもってもらえるのが、嬉しいのだろう。
ヴィクトリア・フォールズへは行かないのか?」
と、運転手が言うので、「乗り継いで、列車で行くつもり」と答えると、運転手は、ますます嬉しそうに頷いた。日本人の観光客は、それほど少ないのだろうか。
 中学生くらいだろうか、下校する学生たちの姿が目につく。ブルーグレーのセーターの制服を着て、ネクタイを締めている。少なくとも、日本の高校生よりは、きちんとした服装である。
 今でこそ、混迷を深めるジンバブエだが、数年前までは、アフリカでは数少ない「成功した国」であった。教育は、国家の発展の基礎である。真面目そうな学生たちを見ていると、この国の将来に、一筋の光明が見える。
 その一方で、消えたままの交差点の信号機には、”SIGNALS NOT WORKING”と書かれた板が打ち付けてある。ハラレには、希望と混沌とが同居していた。