第三章 ハラレ

ハラレ鉄道駅


(書いているうちに長くなったので、章立てを変更しました)


英国植民地・ローデシア時代、英国首相の名にちなんでソールズベリーと呼ばれていたこの街が、「ハラレ」と改称されたのは、独立から2年後、1982年のことである。原住民の言葉・ショナ語で、「眠らない者」という意味だという。
所在なげに佇む黒人がいる一方で、有刺鉄線で囲まれ、ガードマンが常駐する豪邸が建ち並ぶ通りを、タクシーは走る。建物じたいは古いが、日本の「芦屋」に勝るとも劣らない、立派な邸宅である。ジンバブエの人口の1%弱を占める白人か、政府・与党関係者の家だろうか。
ハラレの都心に入ると、日本の感覚では少し時代遅れの高層ビル群が現れ、交通量も増えてきた。さすがに、”SIGNALS NOT WORKING”では捌ききれないようで、交差点の信号機も、ちゃんと機能している。
鉄道の踏切を渡る。当然、といってよいかどうかはわからないが、警報機・遮断機などはなく、安全確認は「自己責任」である。ちょうど、貨物列車が走っているのが見える。まずもって、鉄道に乗りに来た人間としては、「ああ、やっているな」と、嬉しくなる。
ホリディ・イン・ハラレは、ハラレ中心部から程近いところにあった。フロントには、ムガベ大統領の写真が掲げられている。ムガベ大統領に見下ろされながら、チェックインの手続をする。国際的なホテルチェーンだけあって、黒人の女性従業員も、標準的な接客態度である。少なくとも、ロシアのように、いきなり怒鳴られることはない。ほっとしながら、私は、「近くに、両替できるところはありますか」と、聞いてみた。
ここで、ジンバブエの両替事情について、説明しておこう。前にも触れたように、この国の経済は、目下、破綻状態にある。昨年・2006年の年間インフレ率は2000%を超え(要するに、1年間で物価が21倍になったということである)、世界最悪の「ハイパー・インフレ」に見舞われている。昨年8月、ジンバブエ政府は、紙切れ同然だったジンバブエ・ドル(以下、「ZWD」という)のデノミネーションを行ない、為替レートを「1USドル=250ZWD」に固定した。
ところが、経済実態の裏打ちがないのだから、そのように定めたところで、あまり意味はない。実際、その後もZWDの暴落は止まらず、実勢レートは、上記の公定レートとはかけ離れたものになってしまっている。銀行の窓口で正規に両替しようものなら、大損するのは確実だ。空港で、USドルからZWDに両替しなかったのは、これが理由である。
私は、外国人相手のホテルなら、有利な両替所を紹介してくれるに違いない、と思い、尋ねてみたのだが、フロント係は、
「政府の指示により、両替は、銀行でしかできないことになっています」
と、つれない。
しかし、それでは、公定レートでの両替になってしまう。私は、がっかりしながら、
「銀行以外で、両替できるところはないのですか」
と、食い下がってみた。「以外」(rather than)というところを、強調したつもりである。ところが、フロント係は、
「申し訳ありませんが、あなたの助けにはなれません」
と、言い切った。愕然として、「それで、銀行だと、レートはいくらなのですか」と、聞いてみたところ、意外な答えが返ってきた。
「1USドル=15,000ZWD」だという。だが、先ほど述べたように、公定レートは、「1USドル=250ZWD」のはずである。例えば、クレジットカードやATMを使うと、自動的に公定レートが適用される。実際、ホリディ・インの料金は、あらかじめUSドル建てで決まっているが、カード決済の場合、その料金に250を乗じて、便宜的にZWD建て料金を算出してから処理する。鋭い人なら、銀行でZWDに両替してから、現金でホテル代を支払えば、レートの差を利用して、格安で泊まれるのでは、と思われるかもしれない。しかし、そう甘くはないのであって、この国では、ホテル代に関しては、外国人の場合、外貨払いが義務づけられていて、そもそもZWDでは支払いができないのである。
いずれにせよ、銀行が、公定レート以外で両替してくれるという事実を、私は、理解できなかった。だが、「あなたを助けられない」と言われたフロント係に、それ以上突っ込んで聞く気にもなれず、私は、部屋に引き上げることにした。
荷物を運んでくれたポーターが、フロントでのやり取りを聞いていたらしく、部屋に入るなり、声を潜めて、
「ZWDが必要なら、私が両替屋を呼んできます。いくら必要なのですか」
と、言う。その言い方からして、やはり、「ブラック・マーケット」(闇両替)は存在するようだ。しかし、依然よくわからないことだが、銀行でも公定レートではなく、「1USドル=15,000ZWD」だというし、なにより、鉄道の運賃や、物価水準がわからなければ、いくら両替すればよいのか、さっぱり見当がつかない。
私は、人のよさそうなポーターに、
「今から駅に行って、列車の運賃を調べてくるので、両替は、その後でお願いします」
と、言った。加えて、今さら綺麗事になるが、銀行でもそれなりのレートで両替してくれるのなら、あやしげな闇両替とは、関わらないに越したことはない。『地球の歩き方』には、闇両替について「利用するかしないかは個人の判断だが、トラブルが多いのも事実」としか書いていないが、世界的に定評のあるガイドブック”Lonely Planet”には、「決して(never)、路上で両替してはならない。警察に見つかった場合、逮捕される可能性が高い」とある。本国で検事任官を志す者として、ジンバブエの検察官の仕事を、あえて増やそうとは思わない。
ポーターは、
「わかりました。駅へは、歩いて10分くらいです。歩いても安全です」
と、私が、つぎに聞きたいことまで教えてくれた。
しばらく、一人きりの部屋で休憩する。家を出てから、40時間。ようやく、落ち着いた。国内旅行では、たとえ北海道でも「遠い」とは思わないが、さすがに、遠いところへ来たな、と思う。洗面台で顔を洗い、持ってきた日本茶を淹れる。テレビをつけると、意外にも、CNNが受信できた。政府の指示で、外国メディアの視聴が規制された、と聞いていたのだが。
時刻は16時前になった。日本の6月なら、まだまだ明るいが、当地は冬である。暗くなる前にホテルに帰ってきたいので、トートバッグにカメラとガイドブックだけ入れて、街に出た。車道は舗装されているが、歩道、というか道端は、乾いた土がむきだしで、埃っぽい。平日の昼間なのに、道端には、黒人が大勢たむろしている。彼らの前を通り過ぎるのは、さすがに緊張する。肩からかけた鞄を持つ手に、自然と力が入る。見渡す限り、東洋人は、私しかいない。全員の視線を感じる。日本の人込みでも、黒人がいると目立つが、私はいま、その逆の立場に置かれているらしい。
ハラレの中心部は、京都のように碁盤の目の道路なので、わかりやすい。頭に入れてきた地図を思い出しながら、5分くらい歩くと、アフリカン・ユニティ・スクウェアに着いた。1ブロックを占めるちょっとした公園で、市民の憩いの場となっている。スーツを着たビジネスマンなどが、ベンチに座って談笑している。平和な光景だ。外貨不足で節約中なのだろうか、噴水は、止まったままであった。
私も、ベンチに腰を下ろし、ガイドブックの地図を確認する。駅までは、あと半分ほどの道のりだ。再び、歩き始めると、「エクスチェンジ?」と、黒人が声をかけてくる。場合によってはお世話になるかもしれない闇両替だが、あまりにあからさまなので、無視する。
太陽を背に、南に向かって歩くと、れんが造りのハラレ駅が見えてきた。壁にペンキで”HARARE STATION”と書いてあるが、わざわざ、字に影をつけてある。ジンバブエ人というのは、変なところにこだわるらしい。
きっぷ売場はどこかな、と駅舎に近づくと、”UPPER CLASS TICKETS”と書かれた看板の下に、何人か並んでいる。窓口は、一つだけであった。運賃表は、探すまでもなかった。というのも、「5月16日から運賃値上げ」と大書きされたチラシが、窓口に張ってあったからである。
ハラレからブラワヨまで、寝台150,000ZWD、スタンダードクラス80,000ZWD、エコノミークラス60,000ZWDとある。せっかくなので寝台に乗ろうと思うが、「1USドル=15,000ZWD」の銀行レートで計算すると、10USドル相当で、日本人にとっては、格安である。もっとも、クレジットカードで150,000ZWDを決済すると、「1USドル=250ZWD」の公定レートが適用されるので、600USドル(約7万2000円)の請求が来ることになる。駅の窓口ではクレジットカードは使えないが、この国でクレジットカードを使うと、とんでもないことになりそうだ。
ところで、運賃表に“OFF-PEAK FARE”(閑散期料金)という注意書きがあるのが、若干気になる。JRグループの特急料金も、盆暮れ正月などの繁忙期は200円増し、オフシーズンの平日は200円引きになるから、同じような仕組みがあるのだろう、と勝手に解釈しておく。なんでも、JRの制度に引き直して理解するのは、鉄道マニアの悪い癖であるが。
窓口に列を作る客を見ているうちに、乗車予定の列車の指定がとれるか、心配になってきた。鉄道が繁盛するのは大いに結構だが、満席で乗れないようでは困る。ブラワヨゆきの列車は、1日1本しかない。いま、きっぷを買っておきたいが、私は、ZWDの現金を持っていない。
ともかく、運賃がわかったので、ホテルへ引き返す。
途中、「イーストゲート」というショッピングセンターに立ち寄る。服飾品店のほか、スーパーやフードコートなども入っている。日本のようなきらびやかさこそないが、報道で聞いていたような「食糧不足」というイメージとは、異質な空間である。貧しい国を呑気に旅することに、罪悪感を覚えてもいたから、少し、ほっとする。
ホテルに戻ると、間もなく、日が暮れた。お腹も空いたが、ガイドブックには、「日が暮れてからは、徒歩では外出しないこと」とある。なにより、ZWDを持っていないので、外へ出るわけにもゆかず、ホテル1階にあるレストランに入り、ステーキを注文した。飲み物もつけて、15USドルだったが、ステーキは、ゴム草履のように硬かった。
翌朝、ホテルのビュフェで朝食を済ませ、まず、アフリカン・ユニティ・スクウェアの隣にあるStandard Chartered銀行に出かけた。どこの国でもあるように、入口脇には、主要通貨の両替レートが表示されていたが、そこには、「1USドル=250ZWD」とある。私は、わけがわからなくなった。
これは公定レートではないか。そうだとすると、大変なことになる。ブラワヨまでの列車のきっぷを買うのに、600USドル必要になるからだ。とても払える金額ではないし、そもそも、そんな大金は持ち合わせていない。
ともかく、話だけは聞いてみることにした。銀行の中には、ソファーの置かれた待合室があり、空いたブースに、順番に進む方式だった。案内係らしい男の係員が近づいてきて、何の用か、と言う。
USドルの両替をしたいのだが、レートはいくらか、と尋ねた。係員は、レートの表示板を指差す。そこで、
「公定レートではなくて、1USドル=15,000ZWDと聞いてきたのだが」
と、言ってみた。断られれば、闇両替に走るつもりだった。すると、係員は、ちょっと待て、と言うと、奥に入っていった。
係員は、まもなく出てくると、ソファーを指差し、ここで待て、と言う。私としては、先にレートを知りたいのだが、係員は、別の客の応対を始めている。ともかく、待ってみることにした。
10分経っても、20分経っても、いっこうに列は進まない。日本だと、「お客様相談室」に一報しなければならないところである。隣に座っている白人の老婦人と目が合ったので、こちらにお住まいですか、と話しかけてみた。おばあさんは、そうよ、と頷くと、私の内心を見透かしたかのように、こう言った。
「アフリカでは、すべてのことが遅いから、忍耐強くならなければだめよ」
40分ほど待ったところで、ようやく、私の番になった。ブースに進むと、セーターを着た男性の係員が座っている。USドルの両替をお願いしたいのだが、と言うと、
「1USドル=15,000ZWDだが、よいか」
と言う。よいも悪いも、あの紛らわしい為替レートの表示はなんなのだ、と文句の一つも言いたかったが、ひょっとすると、あれは政府向けの「建前」なのかもしれないな、と私は思った。
銀行が、公定レートを守らず、外貨を買うようでは、ZWDは暴落する一方であろう。政府がそれを座視するとは、考えにくい。一つ考えうるのは、銀行も「闇両替」をしている、ということである。それなら、一応の説明はつく。もっとも、あの表示を見て、引き返してしまう旅行者も、少なからずいるかに思われるが。
私は、とりあえず、20USドルを両替することにした。300,000ZWDになるはずだが、係員が操作している時代遅れのパソコンの画面を覗き込むと、”Equivalent Amount 5,000ZWD”となっている。またも、公定レートだ。
「300,000ZWDじゃないの?」
と、聞いてみる。係員は、わかっている、というように頷くと、”Amount Paid”という項目に、数式を入力し始めた。「5,000+295,000」と、ある。
どうやら、私の想像が当たっているようだ。つまり、20USドルに相当する額は、あくまで、公定レートで算出した5,000ZWDだが、実際には、調整額をプラスして支払う、ということらしい。こんなややこしいことをする国、世界でもジンバブエだけであろう。
係員は、私から20USドルを受け取ると、奥の金庫から、ジンバブエの「紙幣」を取り出してきた。最高額面は100,000ZWDで、”ONE HUNDRED THOUSAND DOLLARS”と書いてある。それに続けて、”BEARER CHEQUE”とあり、”on or before 31st July 2007”とある。
そうなのである。急激なインフレの進むこの国では、現在、「現金」というものが存在しない。流通しているのは、中央銀行発行の「小切手」(cheque)という扱いなのである。いま受け取った「紙幣」は、今年7月31日をすぎると、紙切れになる。まったく、ジンバブエは、どこまでもユニーク極まる国である。
ふつうの国なら5分もかからない両替に、たっぷり1時間かかってしまった。早歩きで、駅に急ぐ。駅の窓口には、50人以上の行列ができていた。どこの国でもそうだが、駅には、用もなく集まっている手合いもいるので、誰が列の最後か、にわかには判然としない。並んでいるのですか、と声をかけると、ただそこに立っていただけだったりする。
なんとか、列の最後尾につく。この調子だと、また1時間かかるな、と思っていたら、はたしてそのとおりになった。
1時間並んで私の番になり、「明日の列車で、ブラワヨまで、寝台、大人1人」と言うと、係員は、台帳をめくって、空席状況を確認する。JRの「みどりの窓口」には、世界一の性能を誇るコンピュータ発券システム「MARS(マルス)」があるが、当地では、まだ、手動処理である。本当なら、ブラワヨからヴィクトリア・フォールズまでのきっぷも買っておきたいが、台帳を使った座席管理なので、きっぷは始発駅でしか買えない。
明日の列車には空席があるようで、ひとまず、ほっとする。パスポートの提示を求められ、係員は、台帳に私の名前を書き込んでいる。渡されたレシートのようなきっぷには、指定の寝台番号が書かれていない。聞けば、明日、ホームの掲示板に、名前と一緒に張り出されるのだという。列車が1日1本だからこそ、こういう方式でやってゆけるのだろう。
運賃表どおり、150,000ZWD払おうとすると、係員は「180,000ドル」と言う。なんと、毎週金曜日は「繁忙期」扱いなのだった。
ガイドブックを開くと、たしかに「金曜日・日曜日は約16%運賃が増す」と書いてある(現在の運賃では20%増しだが)。運の悪いことに、ブラワヨからヴィクトリア・フォールズまで、つぎの列車に乗るのは日曜日ときている。嬉しくはない偶然だが、ジンバブエ国鉄の収益に貢献できる、ということにしておく。
列車のきっぷも手に入り、もう、ハラレですべきことはない。すぐにでも、明日の夜になってほしかったが、そうはゆかない。昼なので、いったん、ホテルに戻ることにした。当地は、朝晩は冷え込むが、昼間の気温は25℃くらいになる。ハラレの街を歩くにしても、ジャケットを部屋に置いてきたい。
喉が渇いたので、ホテルの近くの売店に立ち寄り、水を買う。ペットボトルに入ったミネラル・ウォーターだが、値段を聞いて、耳を疑った。57,000ZWDだという。銀行レートで計算すると、日本円で450円になる。「ナントカ還元水」ではあるまいし、いくらなんでも高すぎる。しかも、外国人だからふっかけているというわけでもなく、それが定価のようである。買うのをやめようかと思ったが、水を飲めないと命に係わるので、やむなく購入した。
部屋に戻って、高い水をちびちび飲みながら、このカラクリを考えていた私は、一つの結論に達した。これまで、「1USドル=250ZWD」の公定レートと、「1USドル=15,000ZWD」の銀行レートがあると思っていたが、そうではなく、銀行レートのさらに上に、実勢レートが存在するに違いない。水の値段から察するに、「1USドル=50,000ZWD」くらいではないかと思われる。公定レートと銀行レートとの間の60倍の差にも驚いたが、実際には、200倍もの差があったわけだ。
先ほど、150,000ZWDの寝台料金は10USドル相当で格安だと書いたが、実勢レートでは3USドルということになる。まったく、この国の経済は理解不能だ。よその国の鉄道に乗るのは、楽ではない。
この日の昼食は、日本から持ってきたカップめんで済ませた。なにしろ、闇両替を利用しないかぎり、物価が高すぎるということもあった。
午後、散歩がてら、ショッピングセンター「イーストゲート」に出かけた。昨日、初めてハラレの街を歩いた時は、緊張して、腋の下にじっとりと汗をかいたものだが、昼間なら安全ということがわかったので、いくらかリラックスして歩ける。もっとも、外国の街を歩くにあたって平均的に要求される程度の注意は必要であり、日本と同じ感覚で歩けば、生命・身体・財産の一部または全部を奪われかねない。ハラレには、外務省から、日本人旅行者の路上強盗被害多発、という注意喚起が出ている。
ネットカフェがあったので、入ってみる。料金は、30分で20,000ZWDだという。これくらいなら、払える。Windows XPが入っていたので、日本語が入力できるかな、と思ったが、IMEツールバーが見当たらない。パソコンの得意な人なら、なんとかできたのかもしれないが、仕方なく、英語で日記を書き、JR西日本のホームページをチェックしたりして、時間をつぶす。
ネットカフェを出て、北に向かって歩いてみる。南半球では、太陽は、東から昇り、北を回って、西に沈む。頭ではわかっていても、北を向いたときに、目の前に太陽があるというのは、不思議な気分である。
話が逸れるが、以前、『地球の歩き方』の南米編には、「南半球では、太陽は西から昇り、東に沈む」と、もっともらしい図表つきで書かれていた、というエピソードがある。
アフリカン・ユニティ・スクウェアから数ブロック北上したところに、ガソリンスタンドがある。石油不足が続くジンバブエでは、ガソリンが売り切れのことが多く、ガソリンがあるときは、”PETROL AVAILABLE”(ガソリンあります)という表示が出ている。数少ない営業中のガソリンスタンドには、車が50メートル以上列をなしている。割り込みでもあったのか、2台の車からドライバーが降りてきて、口論している。
スーパーマーケットに入ってみる。日用品を扱うスーパーは、土産物屋などと違い、「普段着」のその国がわかって、楽しい。パンや肉など、食糧品は豊富にあった。値段は、ZWDの実勢レート(推測)では安いが、銀行レートだと、日本とそれほど変わらない。
日が暮れる前に、ホテルに戻り、ホテルのレストランで夕食。昨夜のステーキはいまひとつだったが、この日食べたハンバーガーは、うまかった。
明けて、6月9日金曜日。きょうも、よく晴れている。いよいよ、アフリカの鉄道に乗れる日が来たが、乗るのは21時発の夜行で、時間がありすぎる。昼まで、部屋に篭もって読書し、大きな荷物をホテルのコンシェルジュに預け、再び、ハラレの街に出た。
昨日、高い水を買ったりしたので、手持ちの現金が少なくなっている。レートが不利とわかっている銀行で両替したくはないが、闇両替と関わって逮捕され、列車に乗れなくなると厄介である。私は、銀行で、10USドルだけ両替しておくことにした。
昨日と同じStandard Chartered銀行に出向くと、入口の為替レート表が消えている。あの紛らわしい表示のせいで、客を取りこぼしていることに気づいたのかもしれない。
きょうも30分以上待たされ、ブースに入ると、カウンターの奥を昨日の係員が通りかかる。列車でブラワヨへ行く、という話をしていたから、「ハロー。ブラワヨへは、いつ行くんだい?」などと、聞いてくる。
銀行を出て、ハラレ・ガーデンという公園に行ってみる。当地在住らしい、背を丸めた白人のおじいさんが散歩している。ハラレの街中では、白人の姿を見かけることはほとんどない。2000年、ムガベ政権が、「農地改革」という名の事実上の「白人弾圧」を始めて以来、国外に移住する白人が続出している。植民地時代まで遡れば、白人が黒人から土地を奪ってきた過去があり、「農地改革」の評価はさまざまだろうが、おじいさんの眼は暗く、懐旧の情に満ちているように感じられた。
日のある明るいうちに、駅へ行って、写真を撮っておくことにした。日本と違い、外国では、ホームまで自由に立ち入れることが多い。ジンバブエもそうだろうと思っていたら、ホームの入口に、銃を提げた警備員が立っていて、きっぷをチェックしている。当地では、3月に、列車に火炎瓶が投げつけられる事件があったので、鉄道営業上の「改札」目的というより、不審者の立ち入りを防ぐためらしい。
私は、きっぷは持っているが、今晩の列車なので、入れてくれない可能性がある。こういう予感は当たるもので、警備員、というより兵士は、「ブラワヨゆきの改札は18時から」と言う。18時になれば、あたりは真っ暗で、写真どころではない。私は、
「列車の写真を撮りたいのですが、入れてもらえませんか」
と、頼んでみた。兵士は、少し考えてから、
「写真なら、駅長室に行って、許可を取れ」
と言う。駅長室は、ホームの中にあるので、とりあえずそこを通してくれた。
私は、言われたとおり、駅長室に出向いた。駅長室には、2人の職員がいた。年齢から察するに、2人ともそれなりの地位の職員のようだが、日本のような帽子をかぶっていないので、どちらが駅長かはわからない。闖入してきた東洋人を物珍しそうに見つめる職員に、交互に目をやりながら、
「駅構内で、列車の写真を撮ってもいいですか」
と、尋ねた。
すると、机の向こうに座っている職員が、
「構内での写真撮影は、禁止されている。撮影する場合は、ブラワヨに行って、国鉄本社の許可が必要だ」
と、言う。どうやら、この人が、駅長らしい。
日本では、駅のホームで堂々と三脚を構えても、一般客から白い目を向けられるくらいで、逮捕されることはありえない。せいぜい、「御召列車」運転の1週間以上も前から沿線の撮影地を下見する熱狂的な方々が、過激派と間違えられ、警戒中の警察官から職務質問を受ける程度である。これに対し、途上国では、鉄道は軍事施設に準ずる扱いとされ、撮影禁止というところが多い。テロなどを警戒するためである。まったく鉄道ファンたる者、日本に生まれてよかった、とつくづく思うのであるが、そもそも外国で、「鉄道ファン」という人種を見たことがないから、「ニワトリが先か卵が先か」の話なのかもしれない。
それはとにかく、駅長の語気に、一瞬、引き下がりかけたが、ハラレ駅の写真も撮っておきたい。私は、情に訴えることにした。
「駅長のおっしゃることはごもっともです。しかし、私が写真を撮らんとする目的は、アフリカの旅の、あなたの国の、記念としたいから、その一点であります。どうか、許可していただけないでしょうか」
だが、駅長は、この日本人、おかしなことを言うな、という顔をして、
「それはできない。まず、本社の許可が必要だ」
と、首を横に振る。
「わかりました。そうします」
と、私は答えた。駅長は、わかればいいのだ、というように、笑顔で頷いた。融通は利かないが、悪い人ではないらしい。お仕事中失礼しました、と言って、私は、駅長室を出た。
しかし、私は、あきらめたわけではなかった。こういう国で、正面から、写真を撮ってよいかと聞けば、駄目だと言われるに決まっている。要は、当局に見つかって、ややこしいことにならなければよいのである。
私は、慎重にあたりを見回した。幸い、ホームに、駅員や警察官の姿はない。私は、ホームの端まで歩き、パチリ、と写真を撮った。
駅の出口に戻ると、先程の兵士が立っていて、どうなった、と尋ねる。
「駅長さんに、ブラワヨに行って許可を取れ、と言われました」
と、答える。少なくとも、嘘はついていない。
兵士は、そうか、と言って、そこを通してくれた。
駅舎から離れると、私は、大きく息を吐いた。さすがに、緊張した。「無許可鉄道写真撮影罪」でこれくらい緊張するようでは、私には、人殺しは無理のようだ。
ちなみに、この旅行記を、ジンバブエの官憲が見れば、わが国に対し、逃亡犯罪人(つまり、私のことだが)の引き渡しを求めてくる可能性もある。しかし、そのためには、国際法上、「双方可罰の原則」といって、当該行為が、双方の国で犯罪とされていることが必要となる(なお、専門的な話になるが、同一の構成要件として規定されている必要はない)。本件の場合、わが国で、鉄道写真を撮影する行為が犯罪とならない以上、私が、ジンバブエに引き渡されることはない。
そんなことを考えながら、ショッピングセンター「イーストゲート」のフードコートで「ファンタ」(20,000ZWD)を飲んで、一息つく。
ホテルに戻って、レストランで食事をし、タクシーを呼んでもらった。駅までは歩いて10分だが、大きな荷物を持って、夜道を歩けば、五体満足ではたどり着けまい。
タクシーにはメーターがついていたが、メーターの上がる速さは、ジンバブエのタクシーが世界一と思われる。ひっきりなし、というレベルではなく、「10分の1」秒に1回くらいのペースで上がってゆく。
運賃は、80,000ZWDほどだった。タクシーから降りるなり、得体の知れぬ若者が近寄ってきて、どこへ行くんだ、などと声をかけてくる。チップ狙いなのが見え見えなので、無視して、駅舎に駆け込む。先述のような「改札」があるので、きっぷを持っていない輩は、中には入れない。
ホームには、白と青の塗りわけの客車が、長い編成を横たえていた。

(「第四章 ジンバブエの夜行列車」に続く)