第四章 ジンバブエの夜行列車

ハラレ駅で発車を待つ夜行列車


(本章はまだ執筆途中ですが、きりのいいところで、いったんupします。)

 ホームの真ん中に掲示板があり、名前と寝台番号が発表される。プリントアウトされたものを想像していたが、ボールペンの手書き文字で、読みにくい。すぐには見つからず、上から順番に、丹念に目で追ってゆく。「Mr. Shuji MANO」があった。
寝台の番号はわかったが、車両番号はどこに書いてあるのだ、と思うと、”carriage”という欄に、4ケタの数字が書いてある。車両には、日本の新幹線や特急のような「1号車」「2号車」という通し番号はついておらず、「車番」(「キハ58-1144」など)で表示されているのだった。旅客にわかりやすく、という観念はないようだ。
列車は、窓の周りが青、車体の裾の部分はグレーに塗られている。どことなく、中国の新型客車のイメージに似ている。寝台車は後部2両だけで、ほとんどの客が利用するのは、延々と連なる座席車(スタンダードクラス・エコノミークラス)である。座席車は自由席で、発車1時間前だというのに、我先に乗り込んでいる。スタンダードクラスは、いわゆる「集団見合い式」(すべての座席が車両中央部を向いている形式)の固定クロスシート、エコノミークラスは、ボックスシートを備えている。
指定された寝台に向かう。寝台は、2人用のコンパートメント(個室)である。日本人の感覚だと、個室で初対面の人と相席になるよりは、JRのブルートレインの開放型B寝台のほうが気楽なのだが、外国では、寝台は鍵のかかるコンパートメントという例が多い。これは、防犯のためでもある。
コンパートメントの中は、電灯が点いておらず、真っ暗だった。壁にあるスイッチを押しても、点かない。ひょっとすると、停車中は電気が使えないのかな、と思った。古い客車のなかには、車輪の回転を利用して発電機を回すものがあり、停車中は電気が使えない。シベリア鉄道の客車などは、そうだった。
ところが、隣のコンパートメントは、電気が点いているではないか。ペンライトで室内を照らしてみると、窓の上に、”FAN”(扇風機)と書かれたスイッチがある。まさか、と思いながらそれを押してみると、電気が点いた。まるで、コントの世界である。
日が暮れ、外は涼しくなってきたが、エアコンのない車内はムッとしている。窓は、当然のように全開状態である。虫だけでなく、厄介な人たちが侵入してきかねないので、ガラス窓の内側のよろい戸だけ閉める。よろい戸は、防犯も兼ねた頑丈な作りである。
窓の下には、おそろしく時代がかった収納式洗面台がついている。もう、何年も、いや、何十年も使われていないようで、当然、水は出なかった。
大きなボストンバッグを、座席の脚にワイヤー錠でくくりつけ、ホームに出てみた。外の風に吹かれながら、発車を待つ。寝台車は2両で、車体の色は同じだが、車体の構造から察するに、隣の車両のほうが、新しいようだ。
発車15分ほど前に、コンパートメントに戻ると、隣のコンパートメントから、女の子が2人、物珍しそうにやってきた。年齢は、20歳前後だろうか。飴玉をしゃぶっている。
「どこから来たの?中国?」
と、聞かれる。彼女たちに悪意はなくとも、中国人に間違えられるのは、あまり気分がよいものではない。
「いや、日本だ。君たちは、学生?」
と聞き返すと、
「もう働いているわ」
とのこと。しばらく、彼女たちと、ジンバブエに来た目的や、これからの旅程など、他愛もない話をする。私のカメラを見て、一緒に写真を撮ろう、と言う。肩を組んで、カメラに収まる。
そうこうしていると、同室の客が現れた。初老の男性だが、この人、見覚えがある。相手も、私に気づいたようだ。
なんと、夕方に駅長室を訪れた時、駅長の他にもう1人いた、あの職員氏だった。初めてのアフリカの列車、同室の人がどんな人か心配だったが、鉄道職員とは心強い。もっとも、心強いのはいいが、先の経緯からして、この人の前で列車の写真をパチパチ撮るのは、控えたほうがよさそうだ。
この人の名前は、ネヴェル・チョムソラ氏といい、現在の職階は判然としなかったが、「以前、ハラレの駅長をしていた」と言うくらいなので、かなり偉い人のようだ。JRグループだと、東京駅の駅長は、現場では最高位のポストだが(JR東日本の場合は、取締役でもある)、ジンバブエ国鉄では、運転上の要衝であるブラワヨ駅のほうが重視されているらしい。国鉄本社も、ブラワヨに置かれている。
てっきり、元ハラレ駅長氏もブラワヨまで行くのかと思ったら、カドマで降りる、と言う。
「門真?」
「イエス。カドマ」
ガイドブックの地図を開くと、ハラレから150キロくらいのところに、”Kadoma”という都市がある。
発車時刻の21時になった。私は、ゴトリ、と動き出す感触を待った。初めて乗る鉄道で、列車が動き出す瞬間は、えもいわれぬ恍惚の一瞬である。
ところが、いっこうに、列車は動かない。10分、15分と経った。故障かな、と思い、通路側の窓から、ホームに顔を出してみるが、駅員が慌てている様子はない。もっとも、当地の鉄道では、仮に故障でも、慌てたりしそうにないが。
21時40分近くになって、機関車が、遠くで汽笛を吹鳴した。ほとんどの客が、いったんホームに降りたり、見送りの客が客車内に乗り込んだりしているから、発車予告の意味らしい。当地には、JR東日本のような「発車メロディ」は存在しない。乗る客が列車に戻り、見送りの人は、列車から飛び降りる。例の隣の女の子の1人は、友達を見送りに来ていたようで、手を振って降りていった。
ようやく人の出入りが落ち着いた21時45分、もう一度、汽笛が鳴って、列車は、45分遅れて、ハラレを発車した。客車列車特有の、機関車から1両ずつ引き出される、ガクンという衝撃がある。引き出しを容易にするため、連結器の間隔には若干の「遊び」があるので、仕方ないのだが、この衝撃を和らげるのが、機関士の腕の見せ所でもある。元駅長氏は、”Too bad.”(下手くそだ)と、顔をしかめた。
この列車の編成は、かなり長い。鉄道マニアというのは、列車の編成を頭から尻尾まで眺め、機関車を入れて写真を撮りたがるという習性がある。かく言う私も例外ではなく、写真は無理にしても、せめて機関車だけは見ておこうと思い、ホームを歩いたが、あまりの編成の長さに、コンパートメントに置いてきた荷物が心配になり、途中で泣く泣く引き返したほどである。
編成が長いと、徐行区間を通過するのも、それだけ時間がかかる。列車は、しばらく30キロ程度でゆっくり走っていたが、50キロくらいにスピードを上げた。外の風が吹き込んで、コンパートメントの中も涼しくなる。
まもなく、車掌が検札に来た。私のコンパートメントには、元駅長氏がいるので、車掌氏の顔も和む。元駅長氏は、きっぷではなく、社員証のようなものを見せている。
車掌の後ろに、きれいに洗濯されたシーツや毛布などを抱えた職員がいて、必要な人にだけサービスしてゆく。ほとんどの客はタオルケットなどを持参しているようだが、私は、リネンを頼んだ。これは有料で、30,000ZWD。ちなみに、JRグループの寝台車には、リネン類・浴衣・スリッパが最初から用意されている。
しばらく、元駅長氏と話をする。なんといっても私が興味のあるのは鉄道のことだし、元駅長氏の「専門」分野でもあるから、話が弾む。ハラレから、ブラワヨまでのほぼ中間地点にあたるグウェル(Gweru)までは電化されていて、この列車は、そこで機関車付替え・乗務員交代を行なうという。寝台特急「出雲」(東京−出雲市・浜田間)ありし頃の京都駅を想起する。
信号システムについても聞いてみる。ハラレ周辺は自動信号が機能しているが、その他の区間は、運転担当の当務駅長による”Paper Order”(運転通告券による指令)式で運転しているという。日本でいう「指導通信式」に似たシステムのようだが、日本では、信号機が故障したときを除き、採用していない。
タブレット閉塞機は使っていないのか」
と、尋ねてみたが、「もはや(no longer)使っていない」とのこと。
ガイドブックには、「人前で政治の話をするのは避けよう」などと書いてあるが、元駅長氏に生活環境について尋ねてみると、たちまち政府批判が飛び出した。ちなみに、この国では、ムガベ大統領や政権与党を公然と批判すると、令状なしで身柄拘束(逮捕)される可能性がある。
インフレで、給料もそれなりには上がるが、一人暮らしならまだしも、家族がいる者にとっては大変だ、と言う。生活費の上昇を昇給分ではカバーできないためである。
元駅長氏は、妻と子供3人の5人家族で、上の子供は大学生だという。物腰も柔らかで、紳士然とした元駅長氏だが、家族の生活がかかっているためであろう、口調が激しくなる。政府・与党は、国民の対立を煽る(polarize)だけだ、と言う。
選挙をしても、与党が「投票操作」をするので、有権者数より、与党の得票数のほうが多い「珍現象」が起きた地区もある、と苦笑した。実際、ムガベ政権に対するEUの制裁措置は、政府による選挙干渉がその理由の一つになっている。
これからの旅の話もする。私が、アフリカ最後にケープタウンに行く、と言うと、元駅長氏は、ケープタウンはいいところだ、と笑顔になった。以前、家族で旅行したのだという。アパルトヘイト時代のことらしいので、黒人の元駅長氏にとっては、言いたいこともあるに違いないけれど、多くを語らなかった。
むしろ心配してくれたのは、現在の治安だった。南アの治安情勢によって、今回の旅の計画が決まったといっても過言ではないことは、前述したとおりである。私が、ヨハネスブルグの市内には立ち寄らないことにした、と言うと、元駅長氏は、それが正解だ、と頷き、”Jo’ burg, Jo’ burg, Jo’ burg!”と、吐き捨てるように呟いた。南部アフリカ地域では、ヨハネスブルグは、「ジョーバーグ」(Jo’ burg)と略称されることが多い。
一しきり話をした後、元駅長氏は、食堂車でビールでも飲んでくる、と言った。食堂車も覗いてみたい気がしたが、疲れていたので、ベッドで横になることにした。
元駅長氏が降りるカドマに着くのは、所定では深夜0時ころらしいが、ハラレ出発が45分遅れているので、何時になるかわからない。元駅長氏の顔にも疲れが見えるが、時間的に、一眠りするわけにもゆかないだろう。
風が冷たくなってきたので、よろい戸の外側の窓も閉め、下段の座席の背もたれを倒してベッドをセットし、毛布をかぶった。
 カタタン、カタタンというリズミカルな車輪の音と、適度な列車の振動は、鉄道ファンにとって子守唄のようなものである。寝台で横になると、その効能は一際大きくなる。
この1年間、日本国内では寝台列車に乗る機会がなく、寝台車の感触はシベリア鉄道以来だ。まさにいま、念願のアフリカの鉄道に乗っているのだ、と思うと、夢を見ているようにも感じられる。元駅長氏が戻ってくるまでは起きていよう、と思っていたが、いつしか、眠りに落ちていた。