「真実」発見への飽くなき挑戦

(はしがき)

本稿は,法務省での選択修習プログラムに応募するにあたって提出した小論文である。課題テーマが,「近年の犯罪情勢や犯罪に対する国民感情を踏まえつつ,刑事司法の役割やそのあり方について,各自が特に興味を持つ点を取り上げて論ぜよ」というものであったので,刑事裁判に対する,私の思いの丈を書き綴った。提出前,同期の修習生3人に下読みしてもらったが,「stationmasterくんがいつも言ってることが,全部出てる」という感想であった。

それが評価されたのかは知らぬが,きょう,選考に通った,という通知が届いた。裁判所にいた時に,同じく目を通していただいた,刑事部の部総括判事(裁判長)曰く「心情的には,頷きとおしだった」という論文を,紹介させていただく。

(目次)

  • はじめに
  • 1 刑事司法への期待
  • 2 厳罰化と被害者の権利保護
  • 3 カンフル剤としての裁判員制度
  • 4 刑事裁判のこれから


「真実」発見への飽くなき挑戦―裁判員制度を見据えて―

はじめに
 裁判員制度の施行を1年あまり後に控え,刑事司法に対する国民の関心は,過去に例のない高まりを見せている。そこには,2つの異なる潮流があるように思われる。一つは,社会の耳目を集める凶悪犯罪の増加を背景とした,いわゆる厳罰化の流れと被害者の権利保護の深化であり,もう一つは,裁判員制度への期待ないし「漠然とした不安」である。
 一国の裁判制度は,その国の文化的風土と無関係では存在しえない。わが国民は刑事司法に何を期待し,どのような理想を描いているのであろうか。そして,裁判員制度は,その理想に一歩でも近づくものなのであろうか。本稿では,変革期を迎えたわが国の刑事司法の展望を論じることとしたい。

1 刑事司法への期待

 元来,刑事裁判は,被告人に対する国家の刑罰権の存否・範囲を確定する手続きである。そして,刑罰権の適正な発動は,国家への国民の最も基本的な要求である治安の維持と密接不可分であるから,罪を犯し,治安を害した犯人を処罰し,「正義」の実現を国民が希求するのは,当然といえる。
 わが国は,先進国のなかでもトップクラスの治安を誇っているが,これはとりもなおさず,刑事司法が正常に機能し,国民の要求に応えてきたことの証左である。正義が実現されないところでは,無法が跋扈し,無辜が処罰されるようではまた,法は規範たりえないからである。
 刑事司法が,第一義的には正義実現の場であるとして,その手続きを通して国民が期待するのは,殺人事件などの報道を見てもわかるように,「真実」の発見に他ならない。被告人が真犯人か否かが確定されるのは当然であるが,それに加え,事件の背景が明らかにされることを,国民は望んでいる。
 こうした風潮は,勧善懲悪・信賞必罰という,わが国独特の「裁判観」に深く根ざしたものと思われる。しばしば比喩的に,アメリカ合衆国の刑事裁判を目して「沈んだものが石で,浮かんだものが木の葉である」といわれるのに対し,日本では,「石は沈むべきであり,木の葉は浮かぶべきである」と考えられているのである。
 このような国民感情は,重大事件において,被害者や国民が期待する「真実」に必ずしも迫りきれないフラストレーションとして湧き起こる。「重い罪を犯しておきながら,刑が軽すぎる」という厳罰化の流れと,「被告人の権利が憲法で保障されるならば,被害者の権利もまた保障されるべきである」という議論へとつながるのである。

2 厳罰化と被害者の権利保護

 平成11年に発生した山口県光市母子殺害事件は,刑事裁判のあり方について,国民的議論を巻き起こした。そこではまさに,「死刑か無期懲役か」が激しく争われ,世論の多くは,被告人の「死刑」を支持していた。そして,被害者の遺族は,冷静に被害者の権利保護を訴え,国民的共感を呼んだ。
 そうしたなかで,この事件の上告審判決(最判平成18年6月20日・判時1941号38頁)は,いわゆる永山事件判例最判昭和58年7月8日・刑集37巻6号609頁)を引用したうえで,一審・控訴審判決が挙げた被告人のために酌量すべき事情は,死刑を回避する理由としては不十分である,として原判決を破棄し,審理を広島高裁に差し戻した。本件は,死刑制度そのものの是非についての議論も呼んだが,各種世論調査によれば,国民の大多数は死刑制度の維持を求めている。本件最高裁判決についても,多くの国民からは,至極当然と受け止められているようであり,「厳罰化」は,いまや否定し難い流れとなっている。
 さらに,昨年には,刑事裁判への「被害者参加」制度が立法化されるに至った。従来の被害者意見陳述でも,処罰感情等を裁判所に訴えることはできたが,さらに進んで,なぜ,いわれのない犯罪被害を受けなければならなかったのか,直接,被告人の口から聞き出すことを,被害者は望んでいた。そして,刑事裁判において,被害者が「蚊帳の外」という問題意識は国民一般のものとなっていたから,被告人に対し質問等をする権利を被害者に与える被害者参加制度もまた,国民の支持を得たものと思われる。
 国民の信頼なくして健全な刑事司法は成り立たないが,これらの議論の行方には,よく注意する必要がある。刑事裁判は,前近代的な「復讐」の場ではない。罪の重さに見合った刑罰を被告人に科すことは当然であるが,被害感情が峻烈であるからといって,一律に厳罰に処せばよいというものではない。
 また,被害者が,被告人に対して質問等をすることを望む心情は理解できるが,そもそも,有罪判決確定までの間は,被告人は「無罪」と推定されるのが,刑事裁判の大前提だったはずである。被告人が「犯人」であることを論理的前提とする被害者参加制度は,理論上,疑念がないではない。

3 カンフル剤としての裁判員制度

 職業裁判官による従来の刑事裁判が,国民の良識から乖離しているのではないか,という問題提起は,かねてからなされていた。それは,「裁判官は世間を知らない」という,偏ったイメージが先行したものであり,厳罰化の流れのなかで,量刑への疑問が出されるほか,「有罪率99%」という数字が強調され,「検察官の言いなり」という批判であった。
 これらの批判の多くは,実情を知らないことに起因する抽象論であり,本質的な議論ではない。他方で,アメリカや欧州諸国と比較したとき,日本の刑事裁判は,国民の司法参加の契機が少なすぎる,という議論があった。これらの論者は,日本でも陪審制度を導入すべし,と主張した。
 刑事・民事を問わず,司法作用が民主的正統性をもつべきことはいうまでもないが,そのことと,裁判手続きに市民が関与することとは,理論的にはまったく別次元の話である。ところが,従来の刑事裁判への批判と,陪審制推進論者の意見とが,「国民の司法参加」という錦の御旗の下に結集し,その結果として,裁判員制度が,平成21年5月までに施行されることとなった。
 各種世論調査によると,裁判員制度じたいは,おおむね好意的に受け取られているようである。一方で,自らは裁判員に選ばれたくない,という者は半数以上に達しており,真の意味での「国民の司法参加」が実現するか,制度が動き出すまでは未知数である。
 従来の刑事裁判が,構造的な問題を抱えていたとは思われないが,裁判員制度は,これまでの刑事裁判のあり方に一石を投じ,制度疲労を起こしていた部分のカンフル剤となろうことは,容易に想像できる。われわれ法曹は,裁判員制度が理念どおり運用されるべく,それぞれの立場で努力することが必要であろう。

4 刑事裁判のこれから

 裁判員制度が始まっても,刑事裁判の意義が本質的に変わるわけではない。すなわち,真実発見・刑罰権の適正かつ迅速な発動という目的(刑訴法1条参照)は揺らいではならず,裁判員制度は,そのための手段にすぎない。
 しかしながら,「精密司法から核心司法へ」という言葉に象徴されるように,裁判員制度によって,変わらざるをえない部分もある。
 素人の裁判員が記録を丹念に読み込むことは不可能であり,ほとんど公判廷での証拠調べだけから,心証形成を迫られることとなろう。事実認定のあり方は大きく変化し,必然的に,争点に的を絞った立証にならざるをえないが,ここに,第一の不安がある。冒頭に述べたように,国民・被害者は,事件の背景等も含めた真実の発見を,何より強く望んでいる。事件の争点だけを明らかにする「核心司法」は,真実発見の要求に応えるばかりか,それに逆行することになりはしないか。
 第二に,社会全体が厳罰化を志向するなかで,素人の裁判員による量刑判断は,重くなることが予想される。国民から選ばれた裁判員の感覚こそ適切な量刑感覚である,という考え方もありえようが,「目には目を,歯には歯を」を克服するところから,近代刑事裁判は始まったのではなかったか。この点に関連して,被害者参加制度裁判員に与える影響も,検証する必要があろう。
 わが国がこれからも,世界に誇る治安を維持してゆくうえで,刑事裁判が国民の幅広い信頼に立脚することは不可欠である。だが,国民の信頼を得ることは,決して世論に迎合することではない。安直に世論の歓心を買おうとすれば,逆に,司法の権威は失墜を免れない。
 真に国民の信頼を得るためには,いかなる困難があろうと,真実発見から逃げてはならない。真実が明らかにされてこそ,それに見合う刑罰があるのである。「核心司法」への移行は避けられないにせよ,ひたむきに真実を追究する姿勢が,被害者・国民の期待に応える唯一の途であることを,法曹三者は,いま一度銘記すべきである。訴訟手続きの変化が刑事裁判の究極の目的を害するようでは,本末転倒も甚だしい。
 今から10年,20年後,刑事司法は健全に機能しているであろうか。いやしくも裁判員を前にしたパフォーマンスの場に堕落するならば,刑事裁判の未来は絶望的というほかない。裁判員制度によって,理想の刑事裁判に一歩でも近づくか,取り返しのつかない禍根を遺すか,まさにこの瞬間のわれわれにかかっている。