秋色の日本を探しに

研修所での集合修習の起案ラッシュも終わり,「鉄分」が不足気味だったので,どこかへ出かけることにした。

1日で帰ってこられる目的地を考え,茨城方面もいいなと思いかけたが,「時刻表」を眺めているうちに,会津へ行きたくなった。全国に約200線区あるJR線のなかで,私が一番好きな路線の一つ「只見線」(会津若松−小出間)に,乗りたい。

東京から会津に行くのに,最も速いのは,東北新幹線で郡山まで行き,磐越西線に乗り換える方法だ。鉄道地図があれば,誰でも思いつくルートだろう。

しかし,新幹線は速くて便利な「魔法の杖」だが,面白みに欠ける。

そこで,東武鉄道で,鬼怒川温泉を通って会津若松まで行き,帰路,JR只見線に乗り,越後湯沢から上越新幹線で上野に帰ってくることにした。

そうと決めた私は,土曜日の夕方,JR東日本の「えきねっと」で,会津若松から只見線経由東京都区内ゆきの乗車券と,上越新幹線特急券(越後湯沢→上野)を予約し,和光市駅の「東武トラベル」で,往路の東武の乗車券を買っておいた。

用意したきっぷの合計額は,約1万3000円。高いかな?安いかな?

11月2日日曜日,5時に起床し,5時45分に寮を出た。和光に来て,初めて,朝焼けを見た気がする。そして,寒い!

東武伊勢崎線の始発駅は浅草である。私は,列車には始発駅から乗るのが好きなので,和光市から,池袋と上野で乗り換え,浅草に向かった。

1.浅草710発→(東武伊勢崎線日光線鬼怒川線)→鬼怒川温泉931着

ボックスシート(自由席)の車内は,浅草出発時点でほぼ満席。さらに,北千住でホームいっぱいの乗客を拾い,通路まで立錐の余地のない状況に。

立ちんぼの客には申し訳ないが,居眠りしたり,栃木県内の田園風景をのんびり眺めたりしていると,私の近くの通路に立っていた乗客が,気分が悪くなったのか,突然倒れた。通路に寝かせ,他の乗客に指示し,「車内非常ボタン」を鳴動させ,臨時停車した駅の駅員に引き渡す。

その一件や,日光線と分かれる下今市駅では,「乗客過多」のため,なかなか発車できないトラブルもあり(ホーム上に,お客様が文字どおり溢れるような状況になり,危険なため,列車を発車させられないこと),鬼怒川温泉には,10分ほど遅れて着いた。

2.鬼怒川温泉1001発→(東武鬼怒川線野岩鉄道会津鉄道・JR只見線)→会津若松1157着

尾瀬歩きのハイカーでいっぱいの電車を鬼怒川温泉で降り,会津若松まで直通の快速「会津マウントエクスプレス」に乗り換える。

会津鉄道・JR只見線が非電化なので,この列車は,気動車ディーゼルカー)で運転される。もと名鉄名古屋鉄道)の特急車両で,リクライニングシートの豪華な車内だが,追加料金不要。

朝ごはんがまだなので,鬼怒川温泉駅の駅弁「旬の舞茸弁当」を味わいながら,トンネルが連続する野岩鉄道(昭和61年開業)で福島県に入る。

会津高原尾瀬口という駅に停まる。この駅から先は,旧国鉄会津線で,第三セクター会津鉄道が引き取った。国鉄時代は,会津若松方から1日に数本の列車しかなかったが,東武鉄道の後ろ盾を得て,野岩鉄道の開業を機に東京とつながり,南会津へのルートに成長した。

もっとも,首都圏対会津若松の都市間輸送という点では,会津鉄道区間が非電化・単線で,スピードアップに限界があること,東武野岩鉄道会津鉄道JR東日本の4社連絡運輸となり,運賃をそれぞれ別計算した上で合算するので,かなり割高になること(浅草〜会津若松間片道4540円)から,所要時間では新幹線に,料金では高速バスに太刀打ちできず,周遊型の観光ルートにとどまっている。

会津鉄道沿線には,「塔のへつり」や湯野上温泉,大内宿などの見どころもたくさんあるが,私は,大内宿を除いて,5年前に行ったことがあるので,今回は素通りする。

会津若松も,すでに10回くらい来たことがあり,飯盛山にも登ったし,白虎隊の志士にも手を合わせた。今さらすることもないので,駅構内のそば屋で昼食を済ませ,お土産を見ながら,只見線の列車を待つ。

3.会津若松1308発→(JR只見線)→小出1742着

今回の旅のメインは,只見線である。只見線に乗るために,早起きして出かけたと言っても過言ではない。というのも,只見線を直通する列車は,1日にわずか3本しかないのだ。始発は朝6時発なので,会津若松に前泊しないと乗れないし,夕方の列車だと,日が暮れてしまい,車窓を愛でることもできず,つまらない。

そういうわけで,この列車に乗るしかないのだが,同じようなことを考える人が,近年とみに増えてきた。

私が初めて只見線に乗ったのは,ちょうど10年前だが,その頃は,まだ,昼間の列車も,まったりしたものだった。

ところが,ここ数年,いわゆる「鉄道ブーム」の影響か知らぬが,一般向けの雑誌などでも,「究極のローカル線」として只見線が紹介されるようになり,「青春18きっぷ」の使えるシーズンなどは,昼間の列車が満員になるという状況になっている。

それ以来,私は,「18きっぷ」期間中は,只見線を避けてきたし,どうしても乗りたいときは,会津若松に一泊して,始発の列車に乗るようにしてきた。

そういう次第で,只見線の昼間の列車に会津若松から乗るのは,平成11年3月以来,実に9年ぶりだったが,今日は18きっぷシーズンでもないし,そんなに混むことはないだろうと思っていた。

甘かった。

私は,只見線の発車30分前から会津若松駅のホームに並んでいたのだが,来るわ,来るわ。言わずもがな,私の同類のほか,家族連れ,おばさんの一団などが続々と集まり,嵯峨野のトロッコ列車の客層のようである。

はたして,只見線の2両の列車は,満席になった。

可哀想なのは,高校生など,地元の利用者で,観光客が席を占めているので,座れない。しかも,そういう人たちは,私も含めて,終点の小出まで乗り通すので,途中で席が空くこともない。

こんなのは,私の知っている只見線ではない。あの頃の只見線を返せ,と叫びたくなるが,天に唾するようなことを言っても始まらない。

車内は,只見線というより観光地の「イベント列車」そのものだが,車窓の景色は,紛れもなく只見線のそれである。

只見線は,日本有数の豪雪地帯を走る路線である。冬の好きな私は,2メートル,3メートルもの雪に覆われた只見線が大好きで,何度も乗りにきたが,雪のない只見線も,なかなかいいなと思う。

線路際まで生い茂ったススキの穂が,カサカサと車体を撫でる。

今日は,只見線蒸気機関車C11牽引の臨時列車も運転され,途中の会津宮下駅で,同列車と行き違い。

会津も,紅葉にはまだ少し早いのか,それとも全国的な傾向なのか,息を呑むような錦秋には出会わなかった。が,田んぼも焼き終わり,長い冬を迎える準備を整えた沿線には,小さい秋がいっぱいだ。

こんなに柿の木が多かったのかと驚くくらい(ちなみに,只見線には,その名も「柿ノ木」という駅がある),柿が,あちこちでうまそうに実っている。実は,私は,柿はあまり好きではない。少なくとも,自発的に食べることはない。それでも,たわわに実った柿を見ると,うまそうに見えるから不思議だ。

只見駅を出ると,六十里越の難所をトンネルで抜け,新潟県に入る。

昭和46年,この区間が開業した当時,一番列車には,列車が傾くくらいの乗客が押し寄せたという(宮脇俊三『時刻表2万キロ』参照)。冬は雪で道路が閉ざされるこの地域の人々にとって,鉄道開通は「悲願」だったのだ。

しかし,活況は,長くは続かなかった。

国鉄時代末期には廃線の危機に見舞われ,列車の本数も,3往復にまで減った。

それが今度は,「究極のローカル線」として,観光客が押し寄せるようになった。

皮肉なものである。

鉄道開通への地元の期待と,現実の輸送状況とのギャップは,何も只見線だけではない。岩手県岩泉線も,広島県島根県三江線も,そうである。

乗らずもがなの客しか乗っていないこの鉄路は,どこへ向かうのだろう―。車窓を眺めながら,そんなことを,ぼんやり考えていた。

日もとっぷりと暮れたころ,列車は,上越線との接続駅・小出駅に到着。

小出からは,上越線の普通電車で越後湯沢駅まで出て,新幹線に乗るだけである。

新幹線のルートから外れた小出駅の駅前は,うら寂しい。1軒の食堂が健気に営業しているのに気付き,待ち時間もあるので,入ってみた。店は,地元の人たちで,案外,繁盛していた。

この食堂も,只見線も,永久にこの地にあらんことを祈る。