おかしな文民統制

平成11年、わが国は、当時の小渕総理の「勘違いリーダーシップ」のせいで、対人地雷禁止条約に署名した。

この時、地雷は、防衛すべき海岸線の長い島国・日本にとって有効な軍事抑止力であるという議論はほとんどなされず、「地雷は悲惨な兵器だから禁止すべきだ」などという情緒的な観念論が聞かれただけだった。もともと、人を殺傷するのが目的の兵器に、悲惨もへったくれもあるまいに。

同じような愚行を、この国は、またぞろ繰り返した。日本政府は、先週、ノルウェーオスロで開かれた国際会議で、「クラスター弾に関する条約」(以下、「オスロ条約」という)に署名した。ちなみに、今回の「勘違いリーダーシップ」の首謀者は、河野洋平衆院議長だった。

オスロ条約が発効すると、わが国は、8年以内に、保有しているクラスター爆弾を廃棄する義務を負う。廃棄のための費用だけで200億円以上必要と見積もられているが、クラスター爆弾禁止賛成派の方々からすれば、それだけの巨費を国費から支出するのは当然ということなのだろう。

国土は狭いが、中国の2倍に及ぶ海岸線を防衛しなければならない日本にとって、着上陸侵攻してきた敵勢力を効率よく殲滅するには、クラスター爆弾は必要不可欠な「最終兵器」といっても過言ではない。オスロ条約によっても、不発弾が残らないタイプの新型クラスター爆弾の保持は禁止されないが、自衛隊は、少なくとも現時点では、この新型クラスター爆弾の導入は計画しておらず、国防上、深刻な空白を生じる危険性がある。

このような議論をすると、「今の時代、どこの国が日本に攻めてくるのか」という低次元なことを言い出す人たちが必ずいるが、こういう人たちは、国防の本質を見誤っているというほかない。

例えば、「最近、火事が起きていないから消防署はいらない」「犯罪が減ったから警察はいらない」などと主張する者がいるだろうか。

常に最悪の事態を想定して万全の備えをしつつ、一方で、兵器が実際に使われるような事態を防ぐのが、政治の役目だろう。

さらにいえば、東西冷戦下の「北の脅威論」の時代とは環境は変わったが、インド・ムンバイの同時テロ実行犯のような武装グループが着上陸してくる可能性は、むしろ高まっているのである。

わが国の主要メディアには、オスロ条約に好意的な論調が目立つ。また、NGO主導のオスロ条約に署名する決断に至った政治のリーダーシップを評価する声もある。

もともと「文民統制」とは、軍事に対する政治優先の原則(political leadership)のことであり、その意味では、これこそ文民統制といえるかもしれない。この点、田母神前空幕長の論文問題で文民統制を云々するような、文民統制の意義を全く理解していない議論よりは、少しはまともといえる。

しかし、政治優先とは、軍事力の「使用」についてであって、兵器の種類のような軍事力整備に関わることを素人の政治家に議論させると、とんでもないことになる。

オスロ条約に署名した国は、そもそもクラスター爆弾保有する財力も技術的能力もないような弱小国が中心で、主要国で署名したのは、日本・英国・ドイツくらいである。アメリカ・ロシア・中国は、当然のように署名していない。

軍事大国が軒並み未加入のオスロ条約に実効性がどれだけあるのかという点もさることながら、国防上、クラスター爆弾が有効であり、かつ、それを保有する能力もあるのに、オスロ条約に署名するという危険な賭けに出た国は、日本だけといってよい。英国やドイツは、地政学的位置からみて、少なくとも第三国から上陸侵攻を受ける可能性はほとんどなく、日本とは防衛環境が異なる。

ちなみに、反戦平和派の人たちが大好きな韓国も、オスロ条約には署名していない。世界一の「ならず者国家」に加え、中華思想というヘゲモニーで膨張を続ける独裁国家を抱える北東アジアの防衛環境を考えれば、韓国の意思決定は、国家として当然の決断である。

今からでも遅くはない。条約締結(署名)は行政府の権能だが、国会が批准しない限り、条約に拘束されることはない。国益を見すえた国会論議がなされることを願う。