小呂島オフレール紀行

先週土曜日、休みが取れたので、どこかへ行こうと思った。

休みの日に、私が鉄道に乗りに出かけるのは珍しくもないが、今回は、一風変わったところへ出かけてきた。

その目的地とは、玄界灘に浮かぶ「小呂島」(おろのしま)である。

この島の名前を聞いて、どこかすぐに分かるのは、よほどの離島マニアだろう。

小呂島は、行政区画としては福岡市西区に属しているが、九州の本土はもとより、玄海島能古島など、福岡のほかの島とも遠く離れた、絶海の孤島である。

私が小呂島の存在を知ったのは、「JR時刻表」の索引地図の九州のページを見ている時だった。偶然、小呂島なる島に、航路を示す赤い線が延びていることに気付き、気になって、運航時刻も調べてみると、小呂島には、福岡市営の渡船が、1日1往復ないし2往復していることが分かった。

福岡市営渡船の案内)
http://www.port-of-hakata.or.jp/guide/ferry_city/kohro_5.html

さて、航路が「1日1往復ないし2往復」と書いたが、これが曲者で、上記サイトの時刻表を見ていただくと分かるとおり、小呂島ベースのスケジュールとなっている。毎週月・水・金・日曜日は、小呂島を朝に出て、夕方に小呂島へ戻る1往復しかなく、本土から日帰りで小呂島を訪れることは不可能である。ちなみに、小呂島には、宿泊施設や食堂の類は、一切ない。

そうすると、本土のよそ者が小呂島を訪れるのは、2往復運航日の火・木・土曜日に限られることになる。

私は、4月の初めには、小呂島に行こうと決めていたのだが、このような事情に加え、仕事と鉄道趣味と天気の兼ね合いで、なかなか機会がなかった。島をぶらぶら歩くつもりだから、雨ではおもしろくないし、玄界灘を横切るので、波の穏やかな日が良い。スケジュール帳と天気予報をにらんで、昨日、いよいよ小呂島へ行くことにした。

6月5日午前8時50分。私は、地下鉄空港線姪浜(めいのはま)駅からタクシーで、小呂島ゆきの船が出る能古渡船場へ向かった。ここからは、主に能古島ゆきのフェリーが出るので、福岡市民は、「能古渡船場」と通称しているが、正しくは「姪浜旅客待合所」というらしい。

能古渡船場、正しくは姪浜旅客待合所の待合室は、行楽地である能古島に向かうらしい女子大生などでごった返していた。その片隅に、作業服を着たおっさんなどがいる。小呂島に戻る人だろうか。

能古島ゆきの乗船券は券売機でも買えるが、小呂島ゆきは、窓口での発売である。窓口には、「小呂島へ行楽で行かれる方へ」という注意書きが貼ってあり、「小呂島には、宿泊施設はありません。帰りの船の欠航に備えて、テント、非常食を用意してください」などと書いてある。そのどちらも、私は用意していない。

小呂島までの乗船券は、片道1710円。高速船で1時間余りかかる距離とはいえ、日常の足としては高額である。JRなら、100キロ超の区間の運賃に相当する。

窓口で、往復乗船券を買う。珍しがられるかな、と思ったが、窓口のおばさんは、「小呂ですね」と言って、事務的に発券した。往復運賃は、片道運賃の2倍の3420円で、割引はない。往復乗船券は、4日間有効らしいが、「途中下船前途無効」とある。直航便だから、もとより途中下船できる港があるわけでもなく、玄界灘に身を投げれば、人生の前途も無効にすることになる。

私の後ろに並んでいた若い女性も、小呂島往復の乗船券を買っている。手荷物は小さいが、「ミスタードーナツ」の袋を提げている。島の実家にでも帰るのだろうか。

ほどなくして、小呂島ゆきの改札が始まる。「パタパタ式」(反転フラップ式)の案内装置や、「小呂島行」と書かれた改札案内が、どことなく鉄道を思わせる。

シップは、「ニューおろしま」である。小呂島の読みは、正しくは「おろのしま」なのだが、どうも「おろしま」と通称するようだ。最近の船は、港の形状に合わせて、右舷(スターボードサイド)を接岸するという邪道なことを平気でするようになったが、左舷(ポートサイド)接岸を守っているのは好ましい。

船室は、前方が20席くらいの座席、後方が桝席になっている。高速船は、重心が船尾に片寄っており、後ろのほうが揺れが少ないが、一人で桝席に座っていても落ち着かないので、座席に座る。

ニューおろしまは、私と、先ほどの女性のほか、観光客らしい40歳くらいのおっさん、作業服を着たおっさん数人を乗せて、9時ちょうど、定刻に出航した。

玄界灘の外海に出ても波はほとんどなく、凪いだ海を滑るように渡り、定刻の10時05分、小呂島に接岸した。岸壁には、ナンバープレートのない軽トラが停まっていて、若い男たちが、船から降ろした荷物を積み込んでいる。先ほどの「ミスタードーナツ」の袋を持った女性は、迎えに来ていた若い男性に荷物を持たせ、並んで歩いていった。

私は、そういった光景をしばらく眺めてから、小呂島の集落に向かった。向かったといっても、港のある島の南西側が唯一の集落で、港から一歩入れば、民家の軒先をかすめる路地である。とても、自動車が通れる道ではなく、先ほどの軽トラは、港の岸壁に沿って走っていった。

小呂島は、山が海岸線の近くまで迫っている。集落を迷路のように抜ける路地は、急な上りになり、神戸や長崎を思わせる。

路地は途中から階段になり、集落を一望する高みまで登ると、車が通れるコンクリートの道路に出る。と、先ほど船に乗っていた、観光客らしきおっさんと出会う。おっさんは、一瞬、私を島の人だと思ったようで、「こんにちは」と挨拶してきた。私も「こんにちは」と返事したが、間もなく、船に乗っていた客どうしと分かったようで、ばつの悪そうな顔になる。

おっさんを無視して、だらだらと上り勾配の続くその道路を、さらに登ってゆく。山側には段々畑が広がる。島に川はなく、用水路もないので、水は貴重なようだ。畑には、使い古しの風呂桶などが置かれ、雨水が貯まっている。

遮るもののない道に、陽射しが降り注ぐ。太陽との位置関係からして、道は北方向に延びているようだ。

まもなく、畑は尽き、一面の山林が広がる。「福岡市水道局」と書かれた浄水設備がある。島の上水道は、地下水と、海水の淡水化でまかなわれている。

道端に、「潮風農園」と、ドラマの「トリック」に出てきそうな字体で書かれた畑がある。耕された形跡はなさそうだが、はて。

一本道をひたすら歩いてゆくと、集落から1キロほどで、小呂島の小中学校に着く。何も、集落から離れた山の中に学校を作らなくても、と思うが、港周辺に土地はなく、グラウンドなどとても作れないだろう。それにしても、福岡市立の学校だから、先生は福岡市から派遣されてくるのだろうが、本土育ちの先生にとって、島での生活はいかばかりか。

道は、学校で行き止まりである。仕方なく引き返していると、先ほどのおっさんとすれ違う。ここが、普通の町なら、「行き止まりですよ」と声をかけるところだが、小呂島では、行き止まりの道を往復するくらいしか、することがない。お互い、会釈して行き違う。

途中、山に分け入る砂利道に気づく。せっかくなら、と足を踏み入れかけると、足元にヘビが! と、ギョッとしたが、ヘビは既に死んでいた。が、線路の赤茶けたバラストに似た色からして、マムシのようで、注意しなければならない。

急な上りの砂利道を、時折、クモの巣に突入しながら登ってゆく。モンシロチョウの模様の白い部分を青くしたような蝶が飛んでいる。たまに、草むらの中で、カサカサと何かが動く。マムシだろうか。

はっきり言って、気味の悪い道である。別に、登山しているわけでもなく、引き返してもよいのだが、人が通った形跡があるので、この先に何かがあるはず、と言い聞かせて登ってゆく。

砂利道に分け入って5分ばかり。汗だくになりながら登りきって、納得した。小呂島の通信を支える、NTTドコモ基地局が建っていた。ちなみに、小呂島では、ソフトバンクは「圏外」である。

再び、道路に引き返して、集落に戻る。畑の中に、東方向の山に分け入る路地がある。急な上りのその路地を進んでいくと、「嶽宮神社」と書かれた鳥居と、崩れかけた石段が現れた。旅先で見つけた神社にお参りするのは、私の趣味でもある。石段を登っていくと、この日3度目のおっさんが、上から石段を下ってきた。私が、ドコモの基地局に寄り道している間に、追い抜かれていたのだろう。

私が、タオルで汗を拭いていると、すれ違い際に、おっさんが「やれ、暑いですな」と言う。「ですね」と返事して、さらに登る。

登りきったところにある小さな社殿で、拍手を打って、来た道を引き返す。

コンクリート道路に戻って、集落内に戻ったあたりで、足元を黒いものが横切った。

えっ、と思って、とっさに後ずさりすると、小さなマムシが、頭をもたげて、道路を這っている。もう少しで、まともに踏み付けるところで、危ないところだった。マムシは、向こうから人間を襲ってくることはないが、こちらが攻撃をしかけると、反撃するという習性がある。

集落に戻って、コンクリート道路を南方向に進むと、公民館のような建物があり、中では、白衣を着た人たちが働いている。診療所かな、と思うと、掲示板に、「済生会福岡病院出張診療日程」と書かれていて、それによると、6月3日から6月5日まで、各科目の医師・看護師が島に滞在し、無料で診療を行っているらしい。

南方向の海を望む。澄み切ったきれいな水だ。遥か沖合を、「HYUNDAI」と書いたタンカーが航行している。

しばらく海を眺めてから、集落の路地を歩いてみる。どの家も、玄関扉は開けっ放しで、網戸だけだ。家々から、ばあさんが出てきて、文字どおり、井戸端談義に花を咲かせている。開け放しの台所では、昼ごはんの準備をしている家もある。平和な光景である。

そして、路地のあちこちで、猫が昼寝している。ふつうの町なら、野良猫が多いな、で片づけるところだが、この猫の多さは、何か理由がありそうだ。沖縄の離島で、明治時代、ハブ退治のためにイタチを放したところ、今度はイタチが増えすぎて困っている、という話を聞いたことがあるが、同じ臭いを感じる。

漁協が運営している購買部があり、島で唯一の「商店」でもあるが、土日は全面休業。自動販売機で売っている飲み物の値段は、「本土並み」で、意外である。郵便ポストがあり、取集担当支店(郵便局)を調べようとしたが、取集時刻を書いた紙は貼られていなかった。

港まで戻ると、島に来た時は気づかなかったが、モーター音を発している小屋があり、「九州電力小呂島発電所」とある。日本最小クラスの発電所だろう。

島をたっぷり歩いたが、時刻は11時40分。帰りの船は、13時20分。まだ、1時間以上ある。

港に係留された漁船を見ながらぶらぶらしていると、杖を突いたじいさんが現れ、「どうも」と声をかけてきた。「こんにちは」と返事すると、じいさんは、「暑いけん、こちらへ」と言って、漁協の建物に案内してくれた。

国内・海外を問わず、旅先で出会った地元の人と話をするのは、楽しい。とくに、小呂島については、私のほうから聞きたいこともたくさんある。

じいさんは、小呂島漁協の組合長なども務めた方で、大正14年生まれ・御年85歳。戦争中は海軍に入り、長崎県の相浦(松浦鉄道沿線)の守備に出征したが、復員後は漁一筋だという。

じいさんが漁協の組合長だった昭和61年ころに、福岡市営渡船小呂島航路が開設されたらしい。それまで、本土との交通は、と問うと、漁協が漁船をあっせんしていたのだという。昔も今も、小呂島を訪ねるのは、私のような物好きか、島の関係者ばかりだから、それで間に合っていたのだろう。

私が興味のあるのは、鉄道と郵便局だが、小呂島で鉄道の話をしても仕方がないので、郵便局について尋ねてみる。現在、島に郵便局がないことは調べ上げてあるが、郵便物の集配をどうしているのか、気になっていた。

じいさんによると、昔から、島内の郵便物の集配は、漁協が受託しているのだという。どおりで、郵便ポストには、取集時刻が書かれていなかったわけだ。郵便事業会社との契約内容の詳細は、ここで書くのを控えるが、なかなか興味深かった。

また、島にないといえば、駐在の警察官も、いない。「島の者ばかりじゃけえ、泥棒はおらん」。

ないない尽くしの島にあって、目に付く猫については、「ねずみが漁の網をかじるけん、ねずみ駆除用に猫がいる」のだそうだ。何でも、尋ねてみるものである。

小呂島の現在の人口は、約200人。島民は、全員知り合いだという。絶海の孤島だけに、一つ気になることがある。だが、なかなか尋ねられずにいると、じいさんは、私の疑問に答えるかのように、こんなことを言った。

「昔から、島の者同士で結婚することが多かったが、あまり血が濃くなると、『かたわ』が生まれたりしていかんけん、だいたい、中学生になると、先生が、○○君と××さんは結婚していいとか、結婚したらだめだとか、言ってくれるものだった」

小呂島で、何より印象的だったのは、この言葉であった。

じいさんとは、40分近く話し込んでいたが、別のばあさんがじいさんと喋りに来たのをしおに、礼を言って漁協を出た。

再び、集落をぶらぶら歩いていると、白衣を着た若い女性3人に出会う。旅行かばんも携えているから、出張診療を終えて、福岡に戻る済生会病院の看護師たちであろう。この出張診療は、じいさんによると、年1回とのこと。今日、小呂島に来ていなければ、そういう取り組みをしていることも知らずに、島を離れるところだった。

彼女たちも、小呂島は珍しいようで、路地で昼寝をしている猫に、携帯電話のカメラを向けていた。

帰りの船は、済生会の医師や看護師が19人も乗ったので、なかなかの盛況だった。

小呂島。そこは、絶海の孤島だが、本土のあちこちで目にする「限界集落」とは異質の、温かい島であった。